カイウラニ王女像
ワイキキの中央、カイウラニ通りとクヒオ通りの交差点にある公園、アイナハウ・パーク。この辺りは、カラカウア王、リリウオカラニ女王の妹リケリケ王女と、その夫でスコットランド人のアーチボルド・クレグホーン(後のオアフ州知事)が住む邸宅と美しい庭園があった場所。この一角に建つ女性の銅像が、その娘で23歳の若さでこの世を去った、プリンセス・ビクトリア・カイウラニ(1875~1899)です。■アイナハウで過ごした幸せな子ども時代
カイウラニとロバート・スティーブンソンが座って話をした石のベンチ
「宝島」「ジキルとハイド」の著者、ロバート・スティーブンソンがアイナハウを訪れた時には、バニアンツリーの下にある石のベンチに座り、彼の冒険ストーリーを聞くことが彼女の楽しみだったそう。アイナハウ跡に建つシェラトン・プリンセス・カイウラニには、2人が座ったといわれる石のベンチをはじめ、カイウラニの肖像画や写真、ゆかりの品々が収められています。
■美しく聡明なプリンセスの波乱な人生
ハワイアンの母と白人の父を持つカイウラニは、ハワイの伝統に対する知識と貴族の教養、そして美しさを兼ね備えたプリンセス。しかし、その人生は、ハワイ王国崩壊とともに波乱の道を辿りました。
カラカウア王時代には、王国存続のために6歳のカイウラニと明治天皇の甥との縁組を日本に申し入れ。12歳で母リケリケが他界した後は、13歳でイギリスへ渡り、語学や音楽、文学などを学びました。また、リリウオカラニ女王時代には、王位継承者に。ハワイアンと白人の争いが激化すると、リリウオカラニ女王はカイウラニに王国存続の願いを託し、留学先のイギリスからアメリカ大統領のもとへ派遣。彼女が18歳の時でした。
■悲劇の王女と呼ばれるその結末
1897年カイウラニが8年間のイギリス留学から戻った時には、すでにハワイ王国は崩壊し、ハワイ共和国へ。そして、1899年ハワイ島で乗馬を楽しんでいる途中嵐に遭い、風邪をこじらせ23歳の若さでこの世を去りました。彼女が亡くなった時、飼っていた孔雀たちが一斉に泣き叫び、あまりの騒音にその何羽かを処分しなければならないほどだったとか。こんな彼女の波乱な人生とその結末から「悲劇の王女」と呼ばれています。
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■PRINCESS KAIULANI STATUE(カイウラニ王女像)
アクセス:ワイキキ・クヒオ通り中央、アイナハウ・パーク(カイウラニ通りとクヒオ通りの交差点)。ロイヤル・ハワイアン・センターから徒歩約5分