聴診器をつけたら、ピイタン先生?! |
「はぐれ獣医を特捜」その1はこちら→
獣医さんを志したのは?
●小学校2年生の時です。
笑われるんですけど、とにかく(動物が)何を考えているか知りたかった。
ただそれだけです、話がしたい・・・と思ったんです。
ドリトル先生のような?
●当時はまだその存在を知らなかったんですけど。
動物達が何を考えているのか?どう思っているのか知りたいと思いました。
獣医になればその答えがわかるんだ、と当時の脳みそのシワの数からは精一杯の仮説でした。
だから小学校の文集の将来の夢に獣医さんって書きました。
今でも志した理由のベクトルは失われていませんが、当時より脳みそのシワの数は若干増加したことが予想されますが、なかなか難しいですね(笑)
自慢みたいですが(笑)、実は私は野球少年で、小学校の時に少年野球で全国優勝したんです。
ブログに書かれているイチロー選手との対戦?
●そうです。
中学校の時、愛知県大会の決勝戦でイチロー選手と対戦して負けたんです。
愛工大名電からも特待で来ないか?という誘いがありましたが、獣医界でMVPを取るために断念しました(笑)
全国優勝もしたし、ある程度の結果を出したつもりですが、でも私の実力では本当のトップにはなれないと思っていました。
ただ、私のいけないところは獣医になることが目的だったんです。
で、言葉がわかるようになれば良いんだ、って。
まぁ、それは徐々に年と共に変わってきましたけど(笑)。
実際の獣医師になってみたら?
●医者はみんなスゴイ、プロ野球選手はみんな野球が上手だという低レベルな発想と同じように獣医師はみんなスゴイと錯覚していました。
ある先輩に出会いはノホホンと診察をしていた私にとって衝撃的でした。足元にも及ばない自分の実力を実感し、こういう先生になりたいとか、この先生を超えたい、って思い始めました。
同じタイミングで大学時代の野球部の後輩の紹介も手伝い、大学病院で研修することを決意しました。かっこつけてプロジェクトX風にいうと
男は誓った!最高峰の医療現場で自分を試したい…
目で見て感じて、ニオイを嗅いで吸収したい…!
はぐれ獣医、当時27歳、前代未聞の挑戦が始まった。
選んだ病院は東京大学動物医療センターだった。
しかし、挑戦は困難を極めた。ついてゆけない・・・
野球ではなんちゃってエリート街道を爆走してきた男にとって挫折と苦悩の連続だった…って感じでした。
研修医時代にお世話になった先生方には、心から感謝しています。
共に過ごした獣医師の仲間たちにも影響を受けたし、感謝しています。
あの2年間は、最高潮のモチベーションでストイックに生活しました。
ピイタンちゃん、ホントによく遊びますね♪ |
獣医師になることを諦めそうになったことは?
●親父が大学2年の時に胆嚢癌で他界したんですよ。
親父は、生前一言も伝えてくれませんでしたが、私が獣医師になるのをすごく喜んでくれていたみたいなんですね。
葬式の時に親父の親友から聞いて初めて知ったんですけど。
母親から親父が癌だと聞かされた時は、大学を辞めて働こうと思いました。
死んだ親父からもらった最初で最後の一通の手紙があるんですよ。
名古屋の実家から親子3人で車でボロアポートに荷物を運んできてですね、その夜に
「明日からガンバレ。お父さんとお母さんが帰ったらこれを家で一人で読め!」って、手紙を渡されました。
タイトルは『大学入学にあたって息子へ送る言葉』。
センター試験でズッコケてしまい第一希望の国立大学に行けず、私立大学に行くことになったことをすごく悔しがっている私に対して、
「獣医師を志し、大学に行きたくても行くことができない人がいっぱいいる中でお前は運良く受かったんだから、そう云う人たちの分までがんばれ」という内容が万年筆で書かれてあるんですけど、涙で文字が滲んで読めなくなってます(笑)。
親父は息子ふたりを大学に行かせることが夢だったらしいんですよ。
兄貴の大学合格の時は仕事を休んで兄貴の背中で涙を流したらしいです。
後は弟の方だ、と。
で、私が大学受かった時に「オレはもういつ死んでも良い」、って母親には云っていたらしいんですよ。
その1年半後に、他界しました。
犬の胆嚢摘出手術の術中に胆嚢を見て親父のことを思い出しました。
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ちょっとウルウル目でこんなお話しをされる川野先生。
本当に、本当に熱血先生なんだなぁ、と納得です。
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