世界遺産/アジアの世界遺産

クラック・デ・シュバリエ/シリア(4ページ目)

高原の頂にたたずむ可憐な城、クラック・デ・シュバリエ。アラビアのロレンスが「世界でもっともすばらしい城」と評し、『天空の城ラピュタ』のモデルという噂もあるこの城と、カラット・サラディンをご案内する。

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

サラディンとカラット・サラディン、クラック・デ・シュバリエ

クラック・デ・シュバリエのゴシック式回廊

クラック・デ・シュバリエのゴシック式回廊のアーチ天井。十字軍時代、城内はゴシック式で統一された

エルサレムを落としたサラディンは、十字軍国家と戦い、次々に版図を広げていく。1188年、サラディンはクラック・デ・シュバリエを包囲するが、近くでその城をひと目見ると攻略をあきらめて包囲を解き、軍を進めたという。

同年、サラディンは断崖絶壁の頂に建てられたサユーン城砦をわずか2日で落としてみせる。この砦はサラディンに敬意を込めて、20世紀にカラット・サラディンと呼ばれるようになった。

1189年、エルサレムを奪われたローマ・カトリックの三大王、イングランド王リチャード1世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス王フィリップ2世がまとまって第3回十字軍を結成。アッコを攻略して臨時のエルサレム王国を建国し、サラディンを追い詰める。リチャード1世率いる十字軍は捕虜を大虐殺するなど相変わらず凄惨な戦争を仕掛けたが決定打はなく、1192年、サラディンはこれを退けてついに休戦協定を結ぶ。この協定でサラディンはキリスト教徒に聖地巡礼さえも認めた。

サラディンはこれを見届け、翌1193年、ダマスカスで病没。サラディンの廟はいまもダマスカスに残されているが、もともと蓄財をせずに財産は部下にすべてばら撒いてしまうため、死したときも財産はほとんどなく、棺も木製の非常に質素なものだった。

十字軍とふたつの城の意義

クラック・デ・シュバリエ守備塔内部

クラック・デ・シュバリエの外壁の守備塔内部。マムルーク朝時代に取り付けられたもので、アラブ式の造り

十字軍の遠征によって、アラブの文化とキリスト教の文化は大きく融合し、双方の文化に大きな影響を与えた。

城についても同様で、ビザンツ式やアラブ式が融合したカラット・サラディンと、ゴシック式をベースにアラブ式が融合したクラック・デ・シュバリエの築城は、ヨーロッパからアラビア全土に広がって、建築とテクノロジーに関して新しい文化を切り拓いた。

特に堅牢不敗を誇ったクラック・デ・シュバリエの築城はその後のヨーロッパの城砦の基礎となったという。この城は1271年にイスラム軍バイバルスによって落とされるが、このときも伝書鳩に「城を開けよ」というトリポリ伯からの偽文書を運ばせるという計略によって開門させたといわれている。

やがて両城とも戦略上の拠点から外れて放棄されるが、20世紀に調査・再建がはじまり、歴史的に重要な軍事的建築物として、2006年、世界遺産に登録された。
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