300名の応募者から採用された
初の日本人フライトアテンダント
52年には外資系航空会社として、初めて日本人フライトアテンダントが乗務しました。日本人初のフライトアテンダントとなったのは、遠藤ようこ(現ヨーコ・テイラー)さん。当時24歳だった遠藤さんは300名の応募者の中からたった一人採用され、日本発着の便に搭乗しました。
1950年代初めというのは、日本はパスポートの取得や外貨の持ち出しに制限があり、まだ日本人の乗客はほとんどいなかった時代です。当時はまだ日本を敵国とみなす国もあり、遠藤さんはソウルでは機外にいっさい出ずに帰国便の出発まで機内で待機したり、日本人に対する感情が悪かったマニラでもステイ先から一歩も外へ出ることができなかった──そんなエピソードも残っています。パイオニアには、想像がつかないような苦労が常につきまとうものなのですね。
60年代にはダグラスDC-8での
最速ジェット・サービスを開始
1960年代に入ると、同社初の本格ジェット機ダグラスDC-8を導入し、米国からアジアへの「最速ジェット・サービス」を開始。その後、東京/アンカレッジ/シカゴ線(60年)、東京/シアトルのノンストップ便(63年)、東京/ワシントン線(65年)、東京/ホノルル/サンフランシスコ線(69年)などを次々と就航させます。
1972年に導入されたダグラスDC-10の特徴あるフォルム |
ボーイング720B(61年)、ボーイング707-320(63年)、ボーイング727(64年)などの新型機導入もこの時期に相次ぎました。また61年9月にはニューヨーク/シカゴ/シアトル/アンカレッジ/東京というルートで初の貨物専用便の運航をスタートさせたことも、つけ加えておきましょう。
そして1970年代になると、東京/ホノルル/ロサンゼルス線(70年)、東京/シカゴ/ニューオリンズ線(77年)、大阪/ホノルルのノンストップ便(79年)などの運航を続々とスタート。大量輸送時代の幕開けを告げるジャンボジェット(ボーイング747)を他社に先駆けて太平洋路線に投入した70年代以降の同エアラインの歩みについては、後編で詳しくお伝えしましょう。
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