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【追記】記事の内容は2006年3月の時点のものですが、同店は経営上の理由等で、残念ながら閉店しました。アフガニスタン難民の皆さんの日本で置かれている状況を多くの方に知ってほしいと思い、記事はこのまま掲載しています。2008年9月
料理を食し、アフガニスタンを知る
店内はアフガニスタン絨毯が敷かれた座敷スタイル。奥の壁画は画家、スズキコージさんの絵。このすばらしい絵を大きく見たい人は写真をクリック! |
パキスタン、イラン、ウズベキスタン、中国など6カ国と国境を接し、民族の十字路とも呼ばれたアフガニスタンは、有史以来戦乱が絶えず、大国の思惑に翻弄されてきました。ハサニさんが、神保町でこの店を開くことになったのも、アフガニスタンの複雑な歴史と深くかかわっています。
1992年、兄が大使を務める東京のアフガニスタン大使館で事務職として働くために来日したハサニさんでしたが、内戦の影響を受け、1年足らずでその職を失ってしまいました。帰国しようと思っても戦争状態が続いている上に、ハザラ人という少数民族出身のハサニさんは、当時のタリバン政権に迫害される恐れもあり、帰るに帰れなくなってしまったのです。
職を失い、帰国もできないハサニさんは日本で難民認定を申請。難民とは認められなかったものの、人道的な配慮によって定住者としての許可を得ることができました。アフガニスタンに残っていた奥様のロヤさんを呼び寄せ、工場での職も得て、一時は安定したかのように思えた生活でしたが、そこに、起こったのが2001年9月11日の同時多発テロでした。
日本に住むアフガニスタン人にとっての9.11
ハサニ・M・ユノスさん。料理のこと、アフガニスタンのこと、そして日本に住む難民のこと、知りたいことは何でも聞いてみよう。 |
通訳といっても、ほぼボランティア。それでも、理由なく拘束・強制収容された同胞のためにと、仕事の合間を縫って快く引き受けてるうちに、通訳の方が忙しくなり、工場は解雇されてしまったのです。
職を再びなくしたハサニさんは、収容騒動が一段落すると、その経験を通して、レストランを開こうと決意しました。日本に住むアフガニスタン人が集い、日本人がアフガニスタンや難民についてもっと理解を深めるきっかけとなる店を開きたいと考えたといいます。
それに賛同した難民支援の弁護士や支援者たちが、約1000万円の開業資金を集めてくれたり、様々な面でサポートしてくれたりと、有形無形の様々な協力者が集まり、2003年3月にカブール食堂は開店となったのです。