認知症予防に効果的な「海馬を使う暮らし」
楽しく旅行・散歩をするだけで認知症予防に役立つ? そう考えられる理由とは
認知症では、記憶障害が現れます。私たちの脳の中で記憶を作る中心的役割を果たしているのは「海馬」ですが、認知症でこの部位がダメージを受けると神経細胞が著しく減少してしまいます。
つまり、認知症の記憶障害を防ぐためには、海馬の神経細胞が減らないように保つことが必要です。
近年、海馬には特別に「神経新生」という仕組みがあることが分かってきました(詳しくは「萎縮した脳を回復させる方法はあるのか?脳の神経細胞と神経新生」をご覧ください)。海馬には、神経細胞の元になる「神経幹細胞」が、わずかながら一生涯を通じて存在しており、適度に海馬を使う暮らしを続けていけば、海馬に新しい神経細胞が生まれ、補うことができると考えられています。
では、具体的に「適度に海馬を使う暮らし」とはどんなものでしょうか。海馬は、私たちが体験した出来事を覚えるときに働きますから、いろいろなことを覚えることを繰り返せばよいのでしょうか。それも一つの方法かもしれませんが、何かを覚えようと努力することは必ずしも楽しくありませんね。もっと、手軽で楽しめる方法が「旅行」です。旅行が認知症予防になるとしたら、何とうれしいことでしょうか。
今回は、旅行が認知症予防になる理由を解説します。
ベテランタクシー運転手の海馬は発達している? 調査とその理由
「脳の海馬の働き・機能…記憶や空間認知力に深く関係」でも紹介しましたが、海馬は、記憶形成だけではなく、空間認知力にも深く関係しています。私たちがどこか目的地まで行くには、現在自分が置かれている場所や空間を把握し、どの道をどちらの方向に進めばよいかという道順を頭に描けなければなりません。こうした能力を専門用語で「空間認知力」といいます。この空間認知力を担う海馬の役割に関して、とても興味深いレポートが2000年に発表されました。
イギリス・ロンドン大学のエレノア・A・マグワイア博士らは、ロンドン市内を走るタクシー運転手16人を集め、画像診断装置を使って脳の構造をひとりひとり詳しく調べました(Proc Natl Acad Sci USA 97: 4398-4403, 2000)。なぜタクシー運転手を選んだかというと、タクシー運転手は乗客を目的地に間違いなく送り届けるために、予めその土地の道や建物などの情報をたくさん記憶していなければならないうえ、乗客に目的地を指定された瞬間に頭に地図を描いて目的地へと車を走らせないといけないので、とりわけ海馬を使って仕事をしているだろうと考えられたからです。「海馬を使えば使うほど海馬が発達する」という仮説を検証するには、格好の対象と考えたからです。実際に調査した結果、タクシー運転手は、一般のヒトよりも海馬が大きく、神経細胞の数が多いことがわかりました。画像診断装置を使って脳の構造を詳しく調べたところ、空間認知に関わる海馬の部分が、一般の人よりも大きいことがわかりました。
ただ、タクシー運転手の海馬が大きいというだけでは、もともと海馬が発達していて地図を読むのが得意な人がタクシー運転手という職業を選んだのか、タクシー運転手をやって毎日海馬をたくさん使っていたために海馬が大きくなったのか、どちらかわかりません。そこで、マグワイア博士らはさらに、タクシー運転者の中でも。新米のドライバーとハンドルを握手30年以上の勤務歴をもつベテランのドライバーを比べてみたところ、ベテランのタクシー運転手ほど海馬が大きいことがわかりました。タクシー運転手になって海馬を毎日使っているうちに、海馬が適度に刺激されて、「神経新生」のしくみが促されることで、海馬が大きくなったと考えられます。
認知症予防に旅行の効能…散歩・散策でも効果あり
この事実を考慮すると、認知症を予防するには、タクシー運転手を見倣って、毎日車を運転するのも一手かもしれません。しかし、自動車の運転には危険が伴いますから、無理はしない方がいいでしょう。その代わりに私がお勧めしたいのが「旅行」です。住んでいる所を離れてよその土地へ出かけるときには、頭の中に地図を描きながら移動しますから、空間認知力すなわち海馬を積極的に使うことになります。旅行というと、「しっかり計画をたててお金を使って行かなければならないから面倒」と思う方もいるでしょうが、そんなに大げさに考える必要はありません。家にこもっていないで、街を散歩するなど、積極的に外に出かけるだけでもいいと思います。毎日同じ道を歩くのではなく、たまには違うコースを歩いたり、買い物に出かけるお店を少し変えてみたりするだけでもいいでしょう。また、外に出かけられないという方は、地図や本を読みながら、旅の気分を味わってみるだけでもいいでしょう。頭の中で空間や場所の情報を処理しようとするだけでも、海馬を働かせることができます。
手軽に楽しみながら海馬を刺激できるのが「旅」です。みなさん、どんどん外に出かけましょう!