脳科学・脳の健康

脳の海馬の働き・機能…記憶や空間認知力に深く関係

【脳科学者が解説】脳の海馬は、記憶の中枢です。私たちは、体験した出来事をきちんと記憶できるからこそ、環境に適応してたくましく生き延びていけるのです。脳の海馬のつくりと働きについて、わかりやすく解説します。

阿部 和穂

執筆者:阿部 和穂

脳科学・医薬ガイド

肉体的に強くない哺乳類、生き延びたのは「大脳辺縁系」のおかげ?

海馬の役割・記憶や空間認知力

記憶を作ったり、地図を読んだりするために、海馬は大切な役割を担っています

この地球上で生命が誕生したのは、およそ38億年前と推定されています。最初は、小さな単細胞だった生物がどんどん進化をとげ、今の私たちがいます。恐竜のように、一時代に繫栄をとげたものの絶滅してしまった動物種もたくさんいたことでしょうが、肉体的にさほど強靭ではない哺乳動物が生き延びてこられたのはなぜでしょうか。様々な意見があるでしょうが、脳科学者の一人として私は、「大脳辺縁系を発達させたから」と考えます。

人間だけが創造的になれたのはなぜか?脳で紐解く動物との違い」で詳しく解説しましたが、私たち人間の脳は、おおまかな役割の違いによって4つに分けることができます。1つめの​​​​​脳の下部で中心を支えるように位置している「脳幹」は、呼吸や心臓の動きなど生命維持に欠かせない体の働きをコントロールしており、「生きているための脳」と言えます。しかし、私たちは、いつも呼吸をして物を食べて休んでいれば生きていけるわけではありません。急に天候が変化したり、自分を狙う他の動物に襲われるかもしれません。そんなときには、環境に適応したり、敵から自分の身を守るような行動をとる必要があります。そのために哺乳動物は、2つめの「たくましく生きるための脳」として大脳辺縁系を発達させたのでしょう。見方を変えれば、大脳辺縁系を発達させることのできたものだけが生き残れたとも言えます。

ちなみに、「辺縁」という言葉はほとんど日常会話で使われないので、多くの方が馴染みがないと思います。辞書で調べると、「周辺」「へり」などと説明されています。たとえば、大きな布があり、その端がほつれないように折り返して縫ったりしますね。それと同じように、大脳皮質の端が内側にくるりと巻き込んだ部分が、大脳辺縁系に相当します。下図に示したように、大脳皮質は、進化の過程で新しくできた「新皮質」と古い「旧皮質」に分けることができ、新皮質は表から見えますが、旧皮質は表からは見えず、大脳皮質の端が内側に巻き込んで存在していることから、「大脳辺縁系」という別名が与えられたのです。
大脳辺縁系,旧皮質,新皮質

大脳辺縁系は、大脳皮質のへりが内側に巻き込んでいる部分(ガイドが作成したオリジナル図)

大脳辺縁系は、さらに細かくいくつかの領域に分けることができ、それぞれ役割が異なります。今回はそのうち、「海馬(かいば)」を取り上げます。海馬の役割は、ずばり「記憶を作ること」です。海馬はどのようなつくりをしていて、どうやって記憶を作っているのか、詳しく解説します。
 

海馬の位置・形……大脳皮質側頭葉の下端の縁・タツノオトシゴに似た形

まずは、私たちの脳の中で、海馬がどこにあるか確認しておきましょう。下の図に示したように、大脳皮質側頭葉の下端の縁がくるりと内側に回り込むようにしてできた部分で、左右一対の海馬があります。
海馬,大脳辺縁系,タツノオトシゴ,ギリシャ神話

海馬は、側頭葉の奥に左右一対、横たわるように位置し、ギリシャ神話のヒポカンポスあるいはタツノオトシゴに形が似ていることから名付けられた(ガイドが作成したオリジナル図)。

海馬は英語hippocampusの和名で、さらに語源をたどると、ギリシャ神話に登場する海獣ヒポカンポスに由来します。この海獣は上半身が馬で下半身が魚か蛇のような形をしており、ギリシャ語のヒッポス(馬)とカンプトー(曲げる)を合成して、「曲がる馬」という意味で名付けられたそうです。また、海に実在する生き物タツノオトシゴは、ヒポカンポスに似ていることから、学名Hippocampus coronatusと名付けられています。海獣ヒポカンポスもタツノオトシゴも、英語ではsea horseとも言い、漢字では「海馬」です。

この脳の場所を最初にhippocampus と呼んだのは、1500年代イタリアの解剖学者アランティウスです。人間の脳を解剖してこの部分を目にしたときに、海獣ヒポカンポスかタツノオトシゴに形が似ていると思い、こう名付けたと言われていますが、どこがどう似ていると思ったのかははっきりしていません。
 

海馬の第一の役割は「記憶を作る」こと

海馬と記憶の関係が明らかになったのは、1950年代に海馬を切除する手術を受けた患者さんの症例が報告されてからでした。この患者さんは10歳くらいから、脳の異常によって突然けいれんを起こしたり意識を失ったりする「てんかん」という病気を患っていました。てんかん発作を抑える薬をたくさんのみましたが、いっこうに発作が収まることはなく、脳の中で海馬のあたりに異常があるのではないかと考えられたため、ついに1953年9月の27歳のときに、左右両側の海馬を含む部分を大きく外科的に取り除く手術を受けました。

手術は成功し、てんかん発作は起きなくなりましたが、思いもかけない症状が現れました。手術後に起きた出来事を覚えていないという記憶障害になってしまったのです。さきほど食事をとったばかりなのに何を食べたか覚えていないばかりか、食事をとったことすら覚えていませんでした。毎日顔を合わせている人たちのことも覚えられませんでした。一度読んだはずの小説も、記憶に残らないので、何度くりかえし読んでも、新鮮で楽しめたという逸話もあります。手術から2年が経過した1955年に検査した時、この患者さんは29歳になっていましたが、自分ではまだ27歳だと思っていました。手術を受けた1953年以降の記憶がまったくなかったのです。彼は自分の状態をこう述べました。「いつもこの瞬間に起きている出来事が新鮮に見える。何かあったような気がするが、それが一体なんだったのかは思い出せない。ちょうど夢から覚めたときのように。」彼には、直前に起きた出来事の記憶がなく、常に現在を生きていたのです。

その後、彼以外にも、海馬を外科的に切除したり、生まれつき海馬に障害がある方などの症例が報告され、海馬は「記憶を作るのに必要である」ことが明らかになりました。
 

海馬は記憶を作るために不可欠だが、記憶の貯蔵庫ではない

この患者さんの観察から、海馬と記憶の関係について、もう一つ重要なことが分かりました。

彼は手術後に起きた出来事をまったく覚えられなくなってしまいましたが、手術前に覚えていた事柄は忘れていなかったのです。自分の名前や家族のこと、昔の思い出などは忘れず、きちんど頭の中に残っていました。つまり、海馬が無くなっても、前に覚えていた記憶は失われないのです。このことから、海馬に記憶が蓄えられるわけではないことがわかりました。

私たちが見たり聞いたりした情報や、いつどこで何をしたといった出来事の情報は、すべて海馬に入力され、そこで何らかの情報処理が行われた後、海馬とは別の脳の様々な場所に送られて、そこで保存され、記憶として残っていくものと考えられます。海馬が損なわれると、入ってきた情報を記憶の貯蔵庫に送り込むことができなくなるので、新しい記憶を作ることができません。しかし、すでに記憶の貯蔵庫にしまいこまれた情報は、海馬がなくなっても消えるわけではありません。海馬がなくなっても、倉庫の中にきちんと記憶は残っており、必要な時に引き出して使うことができるというわけです。
 

海馬は記憶の司令塔? 海馬が行う情報の取捨選択とコーディング

では、より具体的に、海馬は記憶を作るために何をしているのでしょうか。その全容はまだ解明されていませんが、海馬は、「記憶すべき情報の選別とコーディング」を行っていると考えられています。

私たちは、見たり聞いたりしたことや、体験した出来事のすべてを覚えているわけではありません。「忘れた」と表現することもありますが、あまり印象に残らなかったことは、「忘れた」のではなく、そもそも「覚えていない」のです。見たり聞いたりしたことのすべてが瞬時に頭に刻み込まれて、すべてを記憶として残していたら、記憶の倉庫がすぐにいっぱいになってしまいます。要らないものまでとっておいたら、家の中が物であふれてしまいますね。要らないものは残さない、断捨離も必要ですね。なので、私たちの脳も、入ってきた情報のすべてを残すことはせず、今後必要になると判断されるものだけを取っておこうとするのです。そうした記憶すべき情報を選び出す役割を、海馬が担っています。

また、コーディングという言葉はあまり耳慣れないかと思いますが、近年コンピューター関係でよく使われる様になった言葉です。コンピューターに指示や命令を出す場合、人の言葉では通じません。私たち人間の言葉をコンピューターにわかる言語に置き換えて、指示や命令をすることをコーディングといいます。

私たちの脳に入ってきた情報も、記憶として残すのに適した形に書き換えられてから、記憶の貯蔵庫である脳の様々な場所に伝えられて、忘れない記憶になっていくのです。海馬は記憶形成においてこうした役割を果たしていると考えられています。
 

海馬と空間認知力……記憶だけではなく「地図を読む」力も

海馬には、記憶を作る以外にも重要な役割がもう一つあります。それは「地図を読む」ことです。

私たちがどこか目的地まで行くには、現在自分が置かれている場所や空間を把握し、どの道をどちらの方向に進めばよいかという道順を頭に描けなければなりません。こうした能力を専門用語で「空間認知力」といいます。空間認知と海馬の関係を示す証拠がいくつかあります。

第1に、海馬には特定の場所を覚えている「場所細胞」があります。たとえば、ネズミの海馬に細い金属の針を入れて、海馬の神経細胞が活動する様子を観察しながら、ネズミを自由に歩かせます。そうすると、特定の場所に行ったときに、ある特定の神経細胞が強く反応することが観察されます。

第2に、海馬に障害があるアルツハイマー病の患者さんは、自分のいる場所、目的地までの道順などが分からなくなり、外出すると道に迷って家に戻れなくなることがあります。

第3に、場所、空間の情報をたくさん使う人ほど海馬が発達しています。たとえば、都会暮らしの人と田舎暮らしの人を比べると、都会暮らしの人のほうが、海馬が大きいと言われています。都会では、ある場所から目的地に到達するのにたくさんの目印や経路があるので、行動するには海馬をさかんに使うことになります。そのため都会暮らしの人は、海馬が刺激されて発達したと考えられます。

また、タクシー運転手は、一般の人より海馬が大きいというデータがあります。タクシー運転手の中でも、新米よりもハンドルを握って30年以上のベテランの方が、海馬が大きいと報告されています(Proc Natl Acad Sci USA, 97(8): 4398-4403, 2000)。タクシー運転手は乗客を目的地に間違いなく送り届けるために、予めその土地の道や建物などの情報をたくさん記憶していなければならないうえ、乗客に目的地を指定された瞬間に頭に地図を描いて、目的地へと車を走らせなければなりません。ベテランのタクシー運転手は、毎日海馬を使って仕事をすることによって、海馬が大きくなったと考えられます。
 

「記憶力」「空間認知力」は、たくましく生きるために必要な機能

記憶力がいい人のことを「頭がいい人」と評する方が多いようですが、それは誤解です。もちろん人並外れた能力をもてることは優れているとみなせますが、そもそも記憶力は、いわゆる知性とは違うものです。

繰り返しますが、海馬は大脳辺縁系の一部です。野生動物たちが、弱肉強食の厳しい環境で、自分の身を守りたくましく生き延びるために発達させた脳です。自分たちが生きていくために必要な水や食べ物はどこにあるか、自分をねらう天敵や害になる危険がどこに潜んでいるか、いざというときどう対応すれよいかなどを、経験を重ねながら忘れないように覚えておくことで、動物たちは生き延びてきたのです。記憶力とは、そのような目的で発達した能力なのです。なので、記憶力がいい人は「たくましく生きる力がある人」と評するべきなのです。

空間認知力も同じです。

海馬は、たくましく生きるための脳です。海馬が障害されるアルツハイマー病などで、記憶力や空間認知力が失われてしまうのは、知性がなくなるということではなく、これらのたくましく生きていく力が失われていってしまうという意味だとよく理解しておいてほしいと思います。
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