江戸歌舞伎の「荒事」を創始したのが初代市川團十郎
さて、今回海老蔵が襲名する「市川團十郎」。これは、一体どんな名前なのでしょうか。歌舞伎が始まったのは、江戸時代初期です。1603年、出雲阿国が京都四条河原で踊ったことが始まりといわれています。
京都四条河原が歌舞伎発祥の地。後方に見える京都南座の横には発祥の地であることを示す石碑や出雲阿国の像もある。
荒事の代表的な演目「暫(しばらく)」では、そのまま空も飛べるのではないかと思われるほど大きな凧のような素襖をつけ、長袴をはき、2mを超すような大太刀をふるい、高さ3cmもある高下駄をはき、周りを威圧する鎌倉権五郎景政というスーパーヒーローが登場します。大太刀、衣裳全てを合わせると60kgを超すといわれ、顔には真っ赤な筋隈をあしらい、大音声で悪者たちをビビらせ、大暴れします。
大きな衣裳で観客を圧倒する「暫」の鎌倉権五郎景政
歌舞伎界には中村家、坂田家、尾上家、片岡家など元禄時代から今なお残るお家は多いのですが、その中でも特に市川團十郎家が江戸歌舞伎の宗家といわれているのは、「荒事」を創始したからです。一方、上方の和事で名人といわれたのは、坂田藤十郎です。
また、特に市川團十郎家だけにある特徴的なものに「にらみ」があります。市川團十郎が口上の場で見せる「ひとつ睨んでご覧にいれましょう」は、厄落としの意味もあり、團十郎に睨んでもらえば、1年間無病息災でいられたといいます。呪術的な意味合いまでもつ團十郎は「江戸っ子の守り本尊」とまでいわれました。
脈々と受け継がれた團十郎の精神
しかし、もし「市川團十郎」が初代だけ偉大だったのであれば、今の世にまで名前は残っていないでしょう。けれども「團十郎」の名は元禄時代から脈々と受け継がれました。早く亡くなった初代の芸を盤石なものにした二代目、文化文政時代に新しい歌舞伎を創始し、歌舞伎十八番を制定した七代目、また「劇聖」といわれた九代目は明治時代の歌舞伎をけん引しました。
江戸時代、歌舞伎は庶民の芸能であり、歌舞伎俳優は「河原乞食」といわれていました。その歌舞伎を明治天皇の目の前で演じ(天覧歌舞伎/1887年)、国家的な芸能にまで地位を押し上げたのは九代目や、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次などの功績です。
また、1962年、59年ぶりに團十郎の名を復活させたのは十一代目です。「海老さま」といわれ大変な美貌で人気者でした。その後1985年に襲名したのが今の海老蔵の父、十二代目市川團十郎です。2013年に十二代目は亡くなり、その後空席となっていましたが、今回9年9カ月ぶりに大名跡の復活となります。大名跡とは大きな名前のことです。
名跡を継ぐということは必ずしも実子が継ぐわけではなく、実子がいなければ養子をもらったり、弟子に継がせたりして「血」よりその「名」の継承に重きを置きますから、今の海老蔵が初代の直系というわけではありません。しかし、その精神は家の精神として受け継がれているはずですし、周りもそう期待しています。
今回の襲名興行は、コロナ禍で収入が大きく落ち込んだ歌舞伎界を盛り上げる起爆剤として、大いに期待をされています。1985年の十二代目團十郎の襲名興行も、低迷していた歌舞伎人気を押し上げ、その後の歌舞伎ブームに続く流れを作るきっかけとなりました。
海老蔵は「團十郎」の名にふさわしいか
さて、「團十郎」という名前の大きさはわかっていただけたでしょうか。それだけ大きい名前を継ぐ市川海老蔵はその名に見合う俳優なのでしょうか。声よし、顔よし、姿よし。スター性は抜群ですが、日常生活の「おはよう」から「おやすみ」までSNSで公開していることもあって、昨今何かと話題になりがちです。大名跡を継ぐからには責任も大きいですし、周りの期待が膨らむ分、どうしても批判の声も大きくなります。過去の「ベールに包まれたスター」とは全く違う新しいスターともいえましょうか。一般的に、襲名をするのが大きな名前であったり先代のイメージが強いと「ちょっと役不足なのではないのか」などと感じられたりするのはよくあることです。襲名により名前が変わると、しばらくはファンも名前に慣れなくて戸惑うのです。
ところが不思議なことに、次第にその名前に見合うように役者自身が大きくなってきます。名前が大きくしてくれるのか、ご本人が名前に追いつこうと努力するのか、おそらくその両方でしょう。海老蔵も、襲名によって大きく成長することが期待されています。
私たちは、十三代目團十郎に何を求めるか
歌舞伎は、その姿を全く変えずに400年伝わってきたわけではありません。時代や観客に合わせて表現を工夫し、姿を変えながら続いてきたのです。そこが能と違うところです。江戸の庶民の喝采を浴びて、荒事は生まれました。江戸時代には、徳川幕府に遠慮をして少しずつ表現を工夫。明治時代に天覧歌舞伎を成功させていなければ、今の歌舞伎界はなかったでしょう。そして、荒唐無稽なストーリーは排除され、史実に基づいた活歴物や、座付き作者ではない作者によって書かれた新歌舞伎が生まれましたが、戦後、江戸時代の「けれん」を重視したスーパー歌舞伎が生まれ、ヒットしました。古典の継承がありつつもさまざまな変遷をたどって今の歌舞伎はありますが、決して時代背景や観客の志向は無視できないのです。
ということは、どんな團十郎を私たちが求めているのか、令和の歌舞伎がどんな演劇となっていくのかは、私たち観客も無関係ではいられないということです。私たち観客は大いに声をあげればいいのではないでしょうか。
芝居を観てがっかりすれば批判をし、歌舞伎そのものから足が遠のくかもしれません。素晴らしければ賞賛をし、たくさんの友達を連れていくでしょう。古くからのファンは新しいやり方に戸惑うこともあるかもしれません。一方、新たなファンが生まれるかもしれません。
團十郎が多くの観客に受け入れられなければ廃れるし、受け入れられればその名は残るでしょう。
結果的に十三代目が100年後までも名が残るような素晴らしい令和の團十郎となれば、同じ時代を生きたものとして、こんなにうれしく、誇らしいことはありません。
参考
※1:松竹株式会社(https://www.kabuki-bito.jp/news/7573)