「北海道・北東北の縄文遺跡群」、7月に日本の20番目の世界文化遺産へ!
■目次- ここがスゴい! 農耕・牧畜なしで定住生活を勝ち取った比類ない遺跡群
- 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産17件の全リスト!
- 縄文草創期の遺跡:土器の使用がはじまり、居住地が形成された時代
- 縄文早期の遺跡:住居と墓地が分離され、集落が成立した時代
- 縄文前期の遺跡:集落の施設が充実し、貝塚が生まれた時代
- 縄文中期の遺跡:巨大な拠点集落が出現した時代
- 縄文後期の遺跡:環状列石のような共同の祭祀場兼墓地が整備された時代
- 縄文晩期の遺跡:縄文の末期で、共同祭祀場と共同墓地が分離した時代
これまでの「北海道・北東北の縄文遺跡群」の道のりは長いものだった。
北海道・青森県・岩手県・秋田県の交流事業がはじまったのが2002~2003年で、2007年には文化庁の世界文化遺産候補の公募に応募して採用された。世界遺産に推薦されるためには、まずユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の「世界遺産暫定リスト」に記載される必要があるが、ここに載ったのが2009年。ただ、文化遺産の推薦枠は各国年1件だったため(現在は自然遺産も含めて年1件)、立候補を表明して枠を勝ち取る必要があった。
2013年から7年連続で立候補を続け、2019年に「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」と競ってようやく推薦枠を勝ち取った。そして2020年1月に推薦され、2021年の世界遺産委員会で審議されることとなったが、この5月26日、文化遺産の調査・評価を担当しているイコモス(ICOMOS。国際記念物遺跡会議)は実質的な内定に当たる「登録」の勧告を通知した。
ここがスゴい! 農耕・牧畜なしで定住生活を勝ち取った比類ない遺跡群
文字による記録のない先史時代は世界的に、原始的な石器を使う旧石器時代から、精巧な打製石器や磨製石器を使い、農耕や牧畜をはじめて定住生活を勝ち取る新石器時代へと移行する(新石器革命)。これに対し、日本の縄文時代には農耕や牧畜ははじまっておらず、狩猟・採取・漁労が行われていた。ところが「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一帯では精巧な石器のみならず世界最古の土器や漆器さえ使いこなし、農耕・牧畜なしで豊かな定住生活を勝ち取っていた。
しかも、紀元前1万3000年~前300年頃と1万年以上の幅を持つ縄文時代のほぼ全時代の遺跡が網羅され、海岸・河川・湖沼沿岸から平地・丘陵・山岳まで多彩な環境の集落が含まれており、環境に応じた適応の様子が見て取れる。加えて、集落のみならず墓や貯蔵穴・貝塚・盛土・環状列石といった多彩な祭祀・儀礼のモニュメントを含み、縄文人の豊かな精神文化を伝えている。
世界遺産は「顕著な普遍的価値」を持つ必要があり、その評価基準である10の「登録基準」の1項目以上を満たす必要がある。推薦書の内容をまとめてみよう。
■登録基準(iii):文化・文明の稀有な証拠
- 狩猟・採集・漁労を基盤に定住生活を達成し、成熟した文化へと発展を遂げた先史文化の様相を伝承する無二の遺産である。世界最古級の土器や漆工芸、日本独特の編組技術、以降の時代に影響を与えた竪穴建物構造、北海道・北東北の地で確立された大型竪穴建物、貯蔵穴の発達、土偶の出現や記念物の活発な構築は、物質的・精神的に成熟した縄文文化の発展を示す。また、堀(濠)や防御施設のない協調的・開放的な社会の継続的な形成は、社会的に成熟した縄文文化の発展を示す。
- 完新世の温暖湿潤の気候のもと、世界的にもまれな生物多様性に恵まれた生態系に適応し、約1万年間もの長期にわたって持続可能な定住を実現した。ブナを中心とする落葉広葉樹が広がる自然環境に、クリやクルミ、ウルシなどの有用植物で構成する縄文里山と呼ばれる人為的生態系を成立させることで生業を維持することができた。人間が自然を大きく改変する農耕や牧畜による定住とは異なる、自然との共生や人類と環境との関わり、土地利用の形態を示す顕著な見本である。
「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産17件の全リスト!
文化遺産候補地「北海道・北東北の縄文遺跡群」は17の遺跡を構成資産としている。以下はそのリストだ。なお、括弧内は(市町村、縄文時代の時期、立地)で、縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に区分される。■構成資産17件
- 大船遺跡(北海道函館市、中期、外洋沿岸)
- 垣ノ島遺跡(北海道函館市、早期、外洋沿岸)
- キウス周堤墓群(北海道千歳市、晩期、丘陵)
- 北黄金貝塚(北海道伊達市、前期、外洋沿岸)
- 入江貝塚(北海道洞爺湖町、後期、外洋沿岸)
- 高砂貝塚(北海道洞爺湖町、晩期、外洋沿岸)
- 三内丸山遺跡(青森県青森市、中期、内海沿岸)
- 小牧野遺跡(青森県青森市、後期、山岳)
- 大森勝山遺跡(青森県弘前市、晩期、山岳)
- 是川石器時代遺跡(青森県八戸市、晩期、内陸河川付近)
- 亀ヶ岡石器時代遺跡(青森県つがる市、晩期、内海沿岸)
- 田小屋野貝塚(青森県つがる市、前期、内海沿岸)
- 大平山元遺跡(青森県外ヶ浜町、草創期、内陸河川付近)
- 二ツ森貝塚(青森県七戸町、前期、湖沼沿岸)
- 御所野遺跡(岩手県一戸町、中期、内陸河川付近)
- 大湯環状列石(秋田県鹿角市、後期、丘陵)
- 伊勢堂岱遺跡(秋田県北秋田市、後期、山岳河川付近)
縄文草創期の遺跡:土器の使用がはじまり、居住地が形成された時代
草創期は紀元前1万3000年~前9000年頃で、旧石器時代から縄文時代に移行する時代に当たる。この時代に定住が開始され、土器の使用がはじまった。構成資産の中では大平山元遺跡が該当する。大平山元遺跡周辺では蟹田川の豊かな自然を背景に狩猟・採取・漁労が行われていた。旧石器時代のものに近い石斧から世界最古の石鏃(せきぞく。石で作られた矢尻)まで多彩な石器が出土するほか、縄の模様を持たないこちらも世界最古級の土器が発掘されている。
住居跡には柱を立てた穴も地下への盛り込みも見られず、テントのような簡素な住居だったようだ。その住居の中で中心を占めていたのが土器だ。土器で水にさらしたり煮炊きすることでドングリやトチノミをはじめ多くのものが無害かつ清潔に食べられるようになり、また土器に貯蔵できるようになったことが定住生活の実現に大きく貢献した。
縄文早期の遺跡:住居と墓地が分離され、集落が成立した時代
早期は紀元前9000年~前5000年頃で、地面を掘り下げて住居の土間や土壁とし、掘立柱(ほったてばしら。穴を掘って底から立てた柱)を立てて屋根を架けた竪穴建物(竪穴式住居)が築かれるようになった。また、竪穴建物が立ち並ぶ居住域と、穴を掘って遺体を埋めた土坑墓が集まる墓地が分離された。構成資産の中では垣ノ島遺跡がこれに当たる。垣ノ島遺跡では堅牢な竪穴建物が集中する集落が見られ、居住域から離れた場所に300を超える土坑墓が集まる墓地が形成されている。墓からは亡くなった子供を弔うための足形付土版(子供の足形のついた粘土板)や世界最古の漆工芸品(肩当て)・髪飾り・腕輪などが発見されている。
早期以降の遺構や遺物も豊富で、透かし彫りの入った香炉形土器や漆塗りの土器、祭祀場と考えられる全長190mのU字形の盛土遺構(土を盛り上げたマウンド)なども見られる。
縄文前期の遺跡:集落の施設が充実し、貝塚が生まれた時代
縄文前期は紀元前5000年~前3000年頃で、集落で貯蔵穴のような貯蔵施設や貝塚のような捨て場といった各種施設が発達した。構成資産では北黄金貝塚、田小屋野貝塚、二ツ森貝塚が該当する。これらは同じ貝塚でもそれぞれ外洋・内海・湖沼沿岸に位置しており、出土する貝や骨も、北黄金貝塚はハマグリやカキ、マグロ、田小屋野貝塚はシジミやイシガイ、サバやカモ、二ツ森貝塚はシジミやアサリ、スズキやシカ、イノシシなどと異なっている。また、海面の上下動に合わせて移動の跡があり、環境変化への対応が見られる。
貝塚のような捨て場は生物の死と関連した施設で、魂をあの世へ送る「送り場」でもあり、墓地と一体化していた。北黄金貝塚では壊れた石器が大量に出土したが、道具に対しても送りを行っていたようだ。また、付近にない黒曜石やヒスイが出土しており、津軽海峡を越えた広い交流があったことを示唆している。
縄文中期の遺跡:巨大な拠点集落が出現した時代
中期は紀元前3000年~前2000年頃で、地域の中心となる拠点集落が登場し、祭祀場が多様化して集落の中心を占めた。構成資産では大船遺跡、三内丸山遺跡、御所野遺跡が該当する。大船遺跡は100棟以上の竪穴建物跡が残る集落で、竪穴建物の規模も大きく、2.4mも掘り下げられている住居跡も発見されている。80×10mほどの巨大な盛土遺構が見られ、祭祀・儀礼を行う送り場だったと考えられている。
三内丸山遺跡でも多くの竪穴建物跡が見られるが、全長32m・幅10mの超大型住居跡は日本最大を誇る。また、巨大な六本柱の掘立柱建物跡は幅・深さとも2mの穴が4.2m間隔で6つ穿たれており、高さ10数~20数m規模の祭壇あるいは物見櫓だったと考えられている。
御所野遺跡にも大きな竪穴建物や掘立柱建物の跡があり、掘立柱の上部に床を張った高床建物の跡も発見されている。祭祀場と見られる盛土遺構には火が使用されており、祭器と思われる土偶が出土している。
縄文後期の遺跡:環状列石のような共同の祭祀場兼墓地が整備された時代
後期は紀元前2000年~前1000年頃で、集落外に大型の共同祭祀場と墓地が整備され、環状列石(ストーン・サークル)のような大規模なモニュメントが築かれるようになった。一方、集落は分散して小型化した。構成資産の中では入江貝塚、小牧野遺跡、大湯環状列石、伊勢堂岱遺跡が該当する。入江貝塚は共同祭祀場兼墓地と見られる3つの大きな貝塚があり、捨て場と送り場を兼ねていた。手足を動かせなかった人物の遺骨が出土しており、介護を受けながら十数年生活していたようだ。
他の3遺跡に共通するのは環状列石で、小牧野遺跡では直径55mの中に四重の列石が見られる。大湯環状列石には最大径52mの万座環状列石と最大径44mの野中堂環状列石があり、それぞれの環状列石の内部には日時計状組石が収められている。伊勢堂岱遺跡では最大で外径45mの環状列石が4基配されている。いずれも土坑墓や捨て場が隣接し、周辺から土偶や石剣などが出土しており、祭祀場と墓地を兼ねていたと見られる。
縄文晩期の遺跡:縄文の末期で、共同祭祀場と共同墓地が分離した時代
晩期は紀元前1000年~前300年頃で、共同祭祀場と共同墓地がさらに充実し、両者が分離した。構成資産ではキウス周堤墓群、大森勝山遺跡、高砂貝塚、是川石器時代遺跡、亀ヶ岡石器時代遺跡が該当する。共同墓地が発達したのがキウス周堤墓群で、墓穴の周囲にドーナツ状に土を盛り上げた9基の周堤墓で知られ、最大のものは外径83mに及ぶ。一方、共同祭祀場が発達したのが大森勝山遺跡で、長径48.5m・短径39.1mの楕円形の環状列石が見られる。周辺に墓地が見られず、別に築かれたと考えられている。
亀ヶ岡石器時代遺跡には土坑墓が集中する巨大な墓地があり、墓地から離れた捨て場からは土偶や土器・漆器・玉類が数多く出土している。こうした特徴は高砂貝塚でも見られる。是川石器時代遺跡は一王寺・堀田・中居の3遺跡からなる遺跡群で、特に中居遺跡が晩期の遺跡に当たる。
【関連サイト】