ミュージカル/ミュージカル・スペシャルインタビュー

『生きる』インタビュー&レポ、傑作誕生の予感(2ページ目)

*観劇レポートUP!*黒澤明映画をミュージカル化した話題の新作『生きる』が、まもなく開幕。どんな舞台に仕上がってきているでしょうか。新納慎也さん・小西遼生さんや作曲家ジェイソン・ハウランドさんへのインタビュー、稽古場・開幕レポートを通して、誕生前後をレポートします!

松島 まり乃

執筆者:松島 まり乃

ミュージカルガイド

 

作曲家 ジェイソン・ハウランドさんインタビュー

一人の男が亡くなる前に“生きる意味を見出す”ということの美しさを伝えたい
ジェイソン・ハウランド 71年米国マサチューセッツ州出身。子供のころからミュージカルに憧れ、学生時代に作曲を始める。大学在学中の92年に『ジキル&ハイド』ワークショップに参加し、フランク・ワイルドホーンと知り合う。『ビューティフル』『タブー』音楽監督、『若草物語』作曲などさまざまなミュージカルで活躍している。(C)Marino Matsushima

ジェイソン・ハウランド 71年米国マサチューセッツ州出身。子供のころからミュージカルに憧れ、学生時代に作曲を始める。大学在学中の92年に『ジキル&ハイド』ワークショップに参加し、フランク・ワイルドホーンと知り合う。『ビューティフル』『タブー』音楽監督、『若草物語』作曲などさまざまなミュージカルで活躍している。(C)Marino Matsushima

――今回の『生きる』に関わることになった経緯は?
 
「『デス・ノート』に編曲、オーケストレーションで参加したのがホリプロさんとのご縁の始まりでした。その後、プロデューサーから、東京で上演された僕の作品『若草物語』を聴いて音楽を気に入ったという連絡があり、ついては新作ミュージカルの曲を書くことに興味はあるか?と尋ねられたのです。“興味はあるけれど、題材は何ですか?”と聞いたところ、『生きる』という映画のミュージカル版だ、ということでした。
 
まずは自分で映画を観てみて、それから父に“ひょっとして『生きる』という日本映画を知ってる?”と聞いてみたら、“もちろん知っているよ。1952年か53年だったかな。学生時代に観た、お気に入りの映画だ”と言うのです。自分でも2度観て、とても引き付けるもののある物語だし、主人公がガンにおかされる悲しい話と聞いていたけど、実際には彼が亡くなる前に希望を見出すという、救いのある美しい物語。一人の人物が驚くべき変化を遂げるという点で、素晴らしいミュージカルになるんじゃないか、これはすごいアイディアだぞ、と思え、参加を決めました」
 
――創作の過程はどのようなものだったのでしょうか。歌詞が先でしょうか、曲が先だったのでしょうか?
 
「はじめの1年間ほどは、脚本の高橋(知伽江)さんとプロデューサーと僕の3人で、ミュージカルの構成についてひたすら話し合いました。というのは、映画の後半は主人公のお通夜で、そこに集った人々の会話にフラッシュバックがさしはさまれるという構造なのです。“主人公が不在というのは、舞台ではできない”と僕は言い、それならどういうことにしようか、といろいろなアイディアを出しあいました。そんななかで、高橋さんがいくつかのカギになるような言葉をくれて、それを受けて僕が断片的なメロディをつけてみる。あるいはその逆で、僕のメロディに高橋さんが言葉をつける。そういうことが繰り返されるなかで、自然と曲が出来上がっていきました」
 
――ということは、曲と歌詞はほぼ同時に生まれたのでしょうか?
 
「手に手を取って、ね。歌のアングルはどうしよう。何がフックになるだろう、といろいろ話し合った後だったから、書き始める前から僕らはそれらの曲が聞こえているという感覚でした」
 
――最初に書いた曲は?
 
「2幕に渡辺が歌う“青空に祈った”ですね。映画を見ていて、僕は“渡辺はなぜ公園を作ろうと思ったんだろう”と気になったんです。ミュージカルでは、この公園を、息子との思い出を通して過去、そして未来と繋がるための象徴として位置づけました。だから彼はぜひとも公園を作りたかったのだ、と。その背景を語るのがこのナンバーです」
 
――1オクターブの中で音がいったりきたりする様子が公園のブランコを想起させますし、アクセント的に置かれた低音が遠い日の思い出をイメージさせ、とても歌詞に寄り添ったメロディですね。
 
「有難う、そういってくれて嬉しいです」
 
――本作は1952年の日本が舞台ということで、作曲にあたり当時の日本の音楽を聴かれましたか?
 
「聴くには聴きましたが、プロデューサーとは、52年の日本は終戦後のラディカルな社会変革を体験している真っ最中で、そのエネルギーを表現するにはむしろ西洋音楽らしいほうがいいだろうという話をしていました。いっぽうで渡辺は純・日本の環境で育った人物ということで、“青空に祈った”では民謡的なペンタトニック音階を使いましたが、映画で最も有名な『ゴンドラの唄』は、僕には和風には聞こえませんでした。
 
ですので今回は和風ということよりも、時代を問わない音楽を意識しました。舞台は日本でも、本作は病魔におかされ、生き方を変える男の話で、それ自体は世界のどこででも起こりうる、普遍的な話です。もし日本的な音楽が求められていたら、僕ではなく日本の作曲家が起用されていたでしょう」
 
――現状、リハーサルの進行はいかがですか?
 
「順調ですよ。もうすぐオーケストラ・リハーサルが始まります。(渡辺役の)市村さんと鹿賀さんは個性が異なるもそれぞれに素晴らしく、(小説家役の)新納さんと小西さんも個性の異なる、パワフルな声をお持ちです」
 
――日本の観客に、このミュージカルをどう観てほしいですか?
 
「一人の男が亡くなる前に生きる意味を見出すというこの美しい物語が、しっかり伝わると嬉しいですね。本作は主人公の“息子との繋がり”“社会との繋がり”の物語だと僕は思っています」
 
――本作はブロードウェイでも評価されそうでしょうか?
 
「可能性はあると思います。物語は普遍的だし、力強い。ブロードウェイ用に手直しする部分としては、例えば英語を日本語に訳すと2倍の長さが必要だといわれますが、その逆で、日本語を英訳すると時間が余ってしまうので、新たな歌詞を付け加える必要が出るかもしれません」
 
――主人公はアメリカの方がご覧になって内気すぎるようには見えませんか?
 
「映画版では確かに内気だし寡黙で、それが効果を生んでいたけれど、それをそのままやるのではミュージカルにならないので(笑)、舞台ではもう少し言語化しています。それに、2幕の渡辺は行動を起こす。そういう人物は内気には見えないものです」
 
作曲家志望の若者が心得るべきこととは

――プロフィールについても少しうかがわせてください。ミュージカルへの興味はいつごろからお持ちでしたか?
 
「8歳ごろですね。僕はマサチューセッツ出身ですが、母がNYに行くたびにショーに連れていってくれたのです。初ミュージカルは『アニー』でした。子供のころの夢は俳優でしたが、高校生になって自分の演技はひどいと自覚し(笑)、作り手に転向しました」
 
――作曲のトレーニングはどのように?
 
「気が付いたら書いていた、という感じです。子供のころにピアノを習っていたので、バッハ、モーツァルト、ショパン、ベートーベンらの曲を通してハーモニーであるとか楽理については知らず知らず身についていました。10代前半の頃はミュージカルの大御所、バーンスタインやリチャード・ロジャースの作品にも惹かれましたが、その後英国によるブロードウェイ侵略があり(笑)、『キャッツ』『オペラ座の怪人』といった作品を聴きました。『レ・ミゼラブル』を初めて観たのは15歳でしたが、その後、ロングランの最後の指揮者を勤めることになろうとは、思ってもみませんでしたね。さらにはポップスやヘビーメタルも聴いていました」
 
――非常に豊かな音楽的ボキャブラリーをお持ちなのですね。またジェイソンさんは作曲以外にも編曲・オーケストレーター、劇作家、演出家など様々な顔をお持ちですが、そのうちどれを中心に据えていらっしゃいますか?
 
「全部ですね。形は何であれ、部屋にこもってクリエイティブなことをするのが好きなんです」
 
――作曲家志望の若い人に何かアドバイスをするとしたら?
 
「何を言われてもイエスということ。誰かが“こういうことはできる?”と聞いてきたら、とりあえず引き受けるべきだと思います。たとえそれが気に入らないとしても、どうすればいいかわからないとしてもね」
 
――一度やってしまえば、その次からは自分の思うようにできるかもしれない、ということでしょうか?
 
「そうです。僕はそうやってきました」

*次頁で稽古場レポートをお送りします!
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