「貴族」名人・佐藤天彦

2018年6月20日。あの永世7冠・羽生善治の挑戦を退け、佐藤天彦(プロ棋士に複数の佐藤姓があるため、以後、「天彦」と表記)が名人位を防衛した。これで3期連続の名人だ。羽生は47歳、天彦は30歳。一回り以上違う二人。2年前の名人初就位も、羽生を破ってのものであり、「世代交代」の鐘が響きもした。

ともに20代で名人という頂点を極めた羽生と天彦。だが、まったく違う色の光も放っている。寝癖の髪を気にかけもせず、テレビインタビューに応じた若き日の羽生。100着以上のブランドスーツを着こなし、ファッショナブルで芸能人顔負けのヘアスタイルの天彦。クラシック音楽を愛する彼を棋士仲間の佐藤慎一は「貴族」と名付けた。

みる将」から常に注目され、投了時にリップクリーム使用という華麗なるエピソード。ミーハーなアラ還(アラウンド還暦)のガイドには『巨人の星』の花形満がダブって見えるが、いずれにせよ、その徹底ぶりには頭が下がる。
 
名人・佐藤天彦/ガイド画

名人・佐藤天彦/ガイド画


誤解なきように加えたい。光の色は違えども、将棋を極めたいという光源は同じだ。花形の言葉がある。「水面下で必死にもがいているからこそ、 水面に浮かぶ白鳥は優雅に見える」。プロ棋士という天才集団の中で頂点を極めた天彦。水面下の水かきは、想像を絶するものに違いない。星飛雄馬は大リーグボール養成ギプスをつけたが、花形も鉄球に鉄バットで臨んだのだ。

だが実は、天彦という白鳥には、卵の殻を破り、生まれ出ずる時に、最大の運命の分かれ道が待っていた。そして、そのいきさつを知ることは、天彦の華麗さを深層まで理解する手段となる。まずは、時計の針を30年前に戻そう。
 
天彦名人(右)とガイド(2018年7月・熊本県玉名市)

天彦名人(右)とガイド(2018年7月・熊本県玉名市)

 

天にとどろく

1988年、新年の喧騒が収まってきた頃、福岡に一人の男の子が生を受ける。その子は「天にとどろくヤマビコのように」との願いから「天彦」と名付けられた。壮大な名だ。言い伝えによれば、ヤマビコは神の声。天に響く神の声、つまり頂きの中の頂点だ。

4歳の頃、母は息子に将棋を教える。若き日の羽生善治が複数タイトルを獲得し、羽生ブームが点火された頃だ。日本中に「将棋」という言葉がじわりと浸透していく。おそらくは「将棋でもやってみる?」そんな何気ない気持ちだったろう。だが、結果として、母は将来の名人に手ほどきしたのである。いやはや運命とはわからぬものだ。

少年・天彦は、はまった。ノンストップで強くなる。相手を求め、将棋道場に通い始める。そこの常連たちの目を点にさせるのに、そう時間はかからなかった。「なんて、強か子だ」。プロ棋士を意識するようになったのは小3の頃。そんな時、東京に住むある男が同窓会に参加するため、故郷の福岡に帰ってきた。
 

師匠・中田功との出会い

痩身長躯のその男は、中田功(なかたいさお)。当時29歳。愛称コーヤン。将棋史の巨星、大山康晴の弟子として鍛えられ、「三間飛車」でばったばったと相手を切り崩す、カミソリのような棋士。著作『コーヤン流三間飛車』シリーズは現在でも愛棋家の必読書だ。そんな中田がプロ棋士としての地位をしっかりと固めた頃だった。

中田は天彦が通う道場の席主から頼まれる。「強い子がいるんだ。ちょっとみてやってくれないか」。こうしてプロ棋士と8歳の子が盤をはさむことになった。その時の様子を中田に思い出してもらった。以下、電話でのインタビューである。
 
師匠・中田功/ガイド撮影2017年(於:九州研修会)

師匠・中田功/ガイド撮影2017年(於:九州研修会)


有田:『中田先生、天彦少年との初めての対局は、どうでした?』
中田:『今、お話したように、同窓会っていう偶然で、出会ったわけです』

そして、感慨深げに続けた。

中田:『彼は8歳ですよね。まだ、子どもも子どもです。とにかく2枚落ちでやってみたんですがね。負かされました』

2枚落ちとは「飛」と「角」を使わずに戦うこと。大変なハンディに思えるかもしれないが、プロ棋士との2枚落ちで勝てるアマチュア級位者はほとんどいない。だから、思わず声がひっくり返った。

有田:『えっ!8歳の子が先生に2枚落ちで勝っちゃたんですか!』
中田:『すでに有段の棋力でしたね。やっぱり、強かったですよ。でも、そういうレベルの子は他にもいますから、特別という感覚はなかったです……』

ここで異をとなえたい。温泉町別府でのん気な将棋教室・将星会を主催するガイドは断言する。8歳の有段者は、ほとんどいない。稀も稀で、特別な子である。だが、中田の言に無理はない。自身も天才集団の中で生き残ってきたプロ棋士。周りは神童だらけだったのだろう。
 

師匠が驚いたこと

中田:『でも、私の印象に残っているのは、将棋の内容とか棋力よりも別のことなんです』
有田:『別のこと……と言いますと?』
中田:『佐藤くんは、指導対局中、ずっと正座だったんです。ずっとです。けっこう長い対局だったんですが、崩さなかったんです。ずっと……』

よほど印象的だったのだろう、冷静沈着な語り口の中田が「ずっと」を繰り返した。

中田:『すごい集中力と言うか、精神力を感じましたね』

なるほど……。中田はそういうところを見ていたのか。

有田:『それで、お弟子さんに、ですか?』

ここで言う「弟子」は、「本格的にプロ棋士を目指す者」と同義語だ。

中田:『もちろん、その後、しばらく間があるのですが。私は、それまで弟子を持ったことがないんです。お話があってもお断りしてきました。だから初めての弟子です。実は、私がプロになってから(ガイド注:1986年)、ずっと福岡出身のプロは出ていなかったんですね。それほど、地方からプロになるのは難しいんです』

中田の言葉は、まさしく、プロ将棋界の実態を表している。天彦が名人となった2016年のデーターで、出身地別に棋士の人数を見てみよう。東京都出身の現役棋士が42名、さすがに首都、もっとも多く輩出している。続いて、神奈川県が15人、大阪府は13人。一方、九州・沖縄地方のすべての県を合計しても、わずかに7人なのである。

奨励会は東京と大阪だけにしかない。通い続ける費用や時間を考えても、困難が多いことは明白だ。何より、天彦のように強くなれば地元に相手がいなくなる。もちろん、中田という師匠はいる。だが、大切なのは同世代のライバルである。その存在が、極めて少ないのも地方ゆえ、なのだ。結局、中田のあとに続く福岡出身のプロ棋士は天彦になるのだが、その間に20年を要している。
 

天彦少年、奨励会へ

さて、天彦は小5で2度めのプロ棋士養成機関の「奨励会」試験に合格。これほどの少年が1度は受験に失敗しているのである。そのレベルの高さがおわかりいただけるだろう。少年は月に2度、関門海峡を渡り、生き馬の目を抜くような戦いに臨むことになった。年齢制限もあり、勝ち続けなければ退くしかない。天彦は著書の中で奨励会についてこう語っている。
 
普通の若者は誕生日が来るとハッピーな気持ちになるのでしょうが、奨励会員は違います。『ああ、また年齢制限に一歩近づいた』と、苦しい気持ちになるのです」/『理想を現実にする力』(朝日新書)より
 

同世代のライバルを

さらに力をつけていき中学生になった。ここから、大切なのは既述のように世代の近いライバルだ。師匠は妙案を思いつく。当時、出始めたばかりのネット将棋(ガイド注:初代iPhoneが発売される5年も前である)を利用して、プロ棋士に稽古をつけてもらってはどうか。この方法ならば、地理的な不利は軽減される。中田が白羽の矢を立てたのは、弟子よりも3歳だけ年長の渡辺明、そう、後の「永世竜王」である。

『福岡に弟子がいるのだけれど、周囲に相手がいないんだ。教えてやってもらえないだろうか』

「日頃お世話になっているコーヤンさんの頼みだから」と渡辺は快諾。福岡と東京が結ばれた。渡辺と天彦の切磋琢磨は、この先も続き、渡辺竜王、天彦名人という棋界の2大タイトルに同時期に君臨したこともある。余談だが、ぬいぐるみ好きとして同好の関係だ。師匠の先進的なアイデアは大変な関係を生み出しもしたのだ。
 
天彦名人・渡辺竜王の署名入り免状/ガイド主宰教室生

天彦名人・渡辺竜王の署名入り免状/ガイド主宰教室生

 

三段リーグという卵の殻

高校生になった天彦は上京、中田も奨励会時代に上京しての下宿経験があったので、師弟ともに同じ道を歩み始めたわけだ。さて、ここで皆さんに知っておいてもらわねばならぬことがある。奨励会では成績に応じて昇進、降級があり、最高位は三段。三段になった者たちは三段リーグというサバイバル戦に突入する。そこで、半年間の成績上位者2名のみが、晴れてプロ棋士となれる。つまり三段リーグこそが、堅牢な卵の殻なのである。厳しく言えば、それまでの過程は卵にすらなっていない状態なのだ。

2002年、天彦は卵の中に入った。殻を破れるか否か。2004年を迎えた。それまでの天彦のベストは3位が一度。わずかに、殻を破れずにいた。そして、この期の成績も一歩及ばず3位。またしても殻は硬かった……。いや、実は、意外なことに、卵の殻には、ヒビが入っていたのだ。
 

最大の岐路と天彦の苦悩

上位2名だけが勝ち取れるプロ棋士という栄冠。だが、特例的な条項があった。

「三段リーグで3位を2回獲得した者は、フリークラスのプロ棋士になる権利が与えられる」

つまり、天彦は8歳の頃から目指していた待望の「プロになる権利」を得たことになる。フリークラスとは基本的に名人戦(順位戦)のC級2組から降級した棋士が所属するクラスだ。他の棋戦の参加は認められるが、名人戦からは除外される。将棋をご存じない方には、わかりにくいかもしれないので、例えてみれば、野球の1軍半になろうか。2軍ではないが、完全な1軍ではない。

しかし、成績次第では昇格も認められる。福岡から中田に続く待望のプロ棋士誕生か!周囲も色めき立つ。やっと苦労が報われる。幼い頃から唇を噛み締めながら、ついに辿り着いた新しい世界。だが、ここで、天彦は迷う。今、プロになって良いものだろうか?天彦にとって、それは、降って湧いたような話だった。このまま三段リーグに残り、再挑戦する道もある。

だが、プロである。目標のプロなのだ。先例もある。伊奈祐介がこの制度を利用し、いったんはフリークラスに入り、3年後にC級2組へと昇格している。迷う。迷う。迷う。こんな時、相談する相手は決まっていた。師匠、中田功だ。
 

中田の結論

中田:『佐藤くんは、どちらが希望なの?
天彦:『どちらでもいいです。先生におまかせします』

2度の3位は立派な実績である。1度の2位に及ばぬものの、遜色はない。日本将棋連盟はそう考えたからこそ、この制度を作ったはずだ。弟子がプロになる。師匠にとっても大きな目標であり、これで肩の荷も降りるに違いない。その中田の答えはこうだった。

『佐藤くん、もう一度、三段リーグに挑戦してみたらどうですか?』

周囲からすれば、耳を疑いかねない答えだろう。もちろん、思いつきではない。中田は定跡を研究しつくし、なおかつ先の先を読むプロ棋士である。フリークラスのことを調べ上げ、天彦の将来に合った答えを絞り出したのだ。

最大の理由は、これだ。同世代のライバルたちと磨き合うことが天彦にとってのベスト。渡辺に頼んだ時と同じ信念が、まったくぶれずに表出したに過ぎない。だが、保証はない。天彦が三段リーグに残ったとして、上位2名に入る保証など皆無なのだ。幼い頃からの夢を奪い去るやもしれぬ提案。

ガイドは、この話を中田に聞いた時、「そっ啄」という言葉が頭に浮かんだ。孵化の時、ひなが生まれ出ようと内側から殻をつつく。そして、親鳥も外側から手助けするようにつつく。この両者のシンクロを「そっ啄」と呼び、この行為によって、無事に殻が割れる。今、天彦の殻は破れようとしている。中田がつつけば、割れる。だが、師匠は、つつかないことを決断した。もちろん中田は専制的な師匠ではない。あくまで助言だ。さて、天彦は、どうするか?
 

天彦の決断

『もう一度、がんばります』

なんと、いや、やはりと言うべきか。天彦も殻を閉じた。中田と初めて出会ったあの日、正座を続けきった少年は、人生の大きな岐路においても、奨励会三段という正座を続けることを選んだ。こうして権利を拒否した天彦の再挑戦が始まった。

有田:『先生、その時のお気持ちは?』
中田:『正直に言いますと、その後、佐藤くんが、プロになってくれた時はホッとしましたね』

天彦は2年後、堂々と2位を獲得、C級2組の戦士として、プロ入りを果たす。なお、その後も含め、この権利を放棄した棋士は誰一人としていない。
 

天彦の「王道」

「王道」。天彦が色紙に好む言葉だ。師匠・中田のインタビューを終え、この言葉がガイドの胸にいっそう響いてきた。2016年、28歳で名人を就位した天彦は、まさしく天にとどろくヤマビコとなった。現在、中田は九州研修会での指導を通し、より多くの子ども達を育てている。天彦は、忙しい中、スケジュールをぬって、九州での普及活動に取り組んでいるという。中田はその話を嬉しそうにしてくれた。
 
普及に務める名人/ガイド主宰教室の子ども達と

普及に務める名人/ガイド主宰教室の子ども達と


有田:『中田先生、最後に天彦名人にひとことを』
中田:『ひとことですか?ないですねえ。四段になった時点で、ただ、見守るだけです』

四段とは、プロ棋士のことである。もう一度、ミーハーなアラ還に戻させてもらいたい。花形満が白鳥として羽ばたいた今も、星一徹が寄り添っている……あたかも星明子のように。

この師弟に、乾杯である。

最後までのお付き合い、ありがとうございました。

追記

<謝辞>
お忙しい中、インタビューの時間を作ってくださった中田功先生。いろいろとお気遣いを頂いた豊川孝弘先生。この場を借りてお礼申し上げます。

<敬称に関して>
文中における個人名の敬称について、ガイドは下記のように考えています。
  1. プロ棋士の方の活動は公的であると考え、敬称を略させていただきます。ただし、ガイドが棋士としての行為外の活動だと考えた場合には敬称をつけさせていただきます。
  2. アマ棋士の方には敬称をつけさせていただきます。
  3. その他の方々も職業的公人であると考えた場合は敬称を略させていただきます。

【関連記事】

※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。