村山聖の伝説
プロ棋士は超天才である。幼いころから、地元強豪の大人たちをなぎ倒し、盤上怖いもの知らず。そんな子どもたちが、プロを目指し「奨励会」というプロ棋士養成機関に飛び込む。神童同士が削り合う修羅場から、ほんの一握りだけがプロ棋士となる。その超天才集団をして、こう言わしめた男がいる。
「終盤は村山に聞け」
~村山聖(さとし)~ぽっちゃりとした一種独特の風貌を持つその男は、若干29歳で逝った。
人間くさい棋士
幼少の頃に腎臓を患い、以後、入退院を繰り返す村山。病床で覚えた将棋に打ち込み、修羅場を駆け抜け、恐るべきスピードでプロとなる。師匠、森信雄との密というよりは濃な関係。だが、病いは悪化。病魔は29歳の村山を連れ去る。悲運・壮絶な棋士。その人生は「聖の青春(著:大崎善生)」に詳しい。松山ケンイチ主演で映画化もされた作品だ。また漫画「聖-天才・羽生が恐れた男-(作画:山本おさむ)」はフィクションながら、監修は師匠、森信雄。「東の羽生、西の村山」と称された男。テレビの題材となりもした。ネットで検索すれば、それこそ山のようにヒットする「村山聖」。しかし、いや、だからこそ書きたい。「病」と「死」を抜きにした村山を。
村山は面白い。そのユニークさはフーテンの寅さんやこち亀の両さんと同じ種類のものだ。寅さんの面白さに「病」は必要ない。村山もしかりだ。あるプロ棋士は、村山をこう評した。
「人間くさい」棋士。
のぞき穴を開けさせる存在
どんな分野でも同じであろう。プロとアマの間には高い壁がある。プロ野球でピッチャーの球速を目にすれば、その高さを簡単に理解できる。プロゴルファーのパットの正確さに、高さを思い知る。私たちは、壁の高さを味合うだけで感動する。そして壁の内側をもっと観てみたいと思う。だから、ルールを知らない人間だって球場に足を運ぶことがある。ゆえにプロという存在が成立する。だが、将棋はそうではない。プロ棋士が指した手の意味、たとえば、あるマスの「歩」を動かした時、私達がその読みの深さを知ることは容易ではない。愛棋家の端くれと自認する私もそうだ。ましてや将棋を知らない人たちに届くことはない。だから、将棋というジャンルにプロが成立するためには、2種の存在が必要だと私は考えている。
1つは、壁のそばまでいざない、そこにハシゴをかけうる存在。もう1つは、壁にのぞき穴をあけさせる存在である。現代将棋界において、前者の代表は豊川孝弘だ。豊川はおびただしい数のハシゴを掛け続けている。豊川については、以前の記事(参考「マツコ・有吉絶賛の「豊川孝弘」-棋界の音二郎郎」)に書いている。未読の方はぜひお読みいただきたい。
そして、後者の代表が村山だ。村山につけられた異名は「怪童丸」、つまり金太郎。熊にまたがりお馬の稽古の金太郎である。お馬に乗る方がはるかに簡単だろうに、熊に乗る金太郎。ひと目、その姿を観てみたくなるのが人情というもの。その金太郎に重ねられたのが村山なのだ。
「音二郎」と「金太郎」。磁石で言えばSとN。対極だが、どちらも鉄を引きつける。実はこの2人、1年違いで奨励会に飛び込んでいる。1982年、豊川が関東奨励会、村山は1年後に関西奨励会。地は違えども、同じ修羅場に立つ若手同士(年齢は豊川が2歳上)。接点があるはずだ。村山を書くには、まず豊川。ガイドはそう考えた。もう、おわかりだろう。村山を「人間くさい」と評したのは、豊川その人である。
だめだよ、村山くん
年の瀬も迫る12月15日夜。多忙にもかかわらず、豊川はインタビューOKというハシゴを掛けてくれた。有田「豊川先生、村山聖先生のことをAll Aboutに書きたいのですが、若い頃、村山先生とのつながりがありましたか?」
豊川「村山くんですか。そりゃあ、ありました。活字にできないような思い出もいろいろと……」
活字にできない……。しょっぱなから、音二郎全開である。そして、村山くんという呼び方に、なんとも言えぬ暖かさを感じた
豊川「いやあ、村山くんってホントに素のままなんです。人間くさくて飾り気がない。何ていうかなあ、子どもがそのまま大人になった感じなんです」
そして、こんなエピソードを加えてくれた。
豊川「そうそう、そのままと言えば、こんなことがありました。村山くんから連絡がありましてね。引っ越しを手伝ってくれって言うんです」
有田「引っ越しですか」
豊川「ええ、引っ越しです。まあ、特別な日ですよね。それで、村山くんの部屋に行きましたらね。なんと、そのままなんです」
有田「えっ?そのままと言いますと」
豊川「僕が行ったのは、引っ越しの当日なんですよ。なのに部屋の中は日常のまま。片付けはしていない、荷物の整理どころかダンボールの一つもない」
有田「ありゃまあ」
豊川「もう、びっくりですよ。ふつう、手伝い頼んだら用意するじゃないですか。それで、僕、言ったんですよ。だめだよ、村山くん。ダンボールくらい用意しとかなきゃって」
有田「ですよねえ」
豊川「そしたら、そういうもんですかあ、ですもんね。全然悪びれてない。村山くんは、そんな感じなんです。いつも、そのまま……」
活字にできない話の中にも、同じフレーズが繰り返された。
いわく「だめだよ、村山くん」
電話の先に、昔日に思いを馳せる豊川の顔が浮かぶ。
旧体制の最終ランナー
子どもが大人になるのは難しい。ピーターパンシンドローム、モラトリアム……。ハードルを越えながら多くの子が葛藤や違和感を克服して脱皮する。だが、子どものまま大人になるのは、もっと難しい。金太郎だって坂田金時となり源頼光に仕えた。だから、どこかで憧れる。一緒に暮らすのは大変だが、観てみたい。寅さんや両さんがギネスに載るのは不思議でも何でもない。ましてや村山は架空ではない。実在の人物なのだ。村山が奨励会に入った1982年。将棋界に衝撃が走った。谷川浩司名人(参考「永世名人・谷川浩司は阿弥陀如来を見ている」)の誕生である。今でも破られぬ最年少名人(21歳)記録を持つ谷川。村山も憧れた。
将棋史は谷川出現以前と以降に分けられるとガイドは考えている。谷川以降、将棋は哲学と科学になった。美しさが求められ、対局データーは蓄積、分析される。さっそうと登場した谷川はスマートだった。 では、それ以前の将棋とは何だったのか?豊川の言う「人間くさい」棋士による生き様のぶつけ合いだった。
豪放磊落升田幸三(参考「将棋で連合国総司令部(GHQ)を詰んだ男~升田幸三~」)は時の名人木村義雄に向かい「名人などゴミだ」と言い放った。そして自らを「ゴミにたかるハエだ」と笑った。泥沼流・米長邦雄(「先手を指し続けた男」)は「横歩も指せない男に負けてはご先祖様に申し訳ない」と暴言まがいの挑発。
彼らの織りなす勝負は盤外におよび、世間をも巻き込んだ。唯我独尊。世間の物差しでは測れない、子どものまま大人になった人間たちだ。村山もそうであった。爪は切らず、髪はボサボサ。部屋には3000冊のマンガ本。なんと同じ漫画を3冊ずつ購入したという。なんど世間は繰り返したことか。
「だめだよ、村山くん」
耳に入るはずもない。谷川革命によって新しいイデオロギーを獲得した将棋界。村山は旧体制の最終ランナーだった。
伝説を超える現実
豊川「そうそう、囲碁も打ちましたね。お菓子代くらい賭けようかって話になりましてね」有田「へえ!どちらが勝ちました?」
豊川「僕が勝ったんですよ。そしたら、村山くん、財布をじっと覗きましてね。こう言うんです」
豊川は間をおいた。
豊川「すみません。今日は万札しか入ってないので、許してください」
有田「ははは」
豊川「もちろん、本気でもらう気はないですよ。でも、それが繰り返されるんです。子どもの言い訳でしょ」
有田「で、豊川先生、なんて言いました?」
答えは期待通りだった。
豊川「さすがに言いました。だめだよ、村山くん」
最後にこう聞いた。
有田「村山先生は、やっぱり強かったですか?」
豊川「そりゃ、強かったですよ。強くなければ、この世界は意味がありません」
修羅を生きる言葉だ。もう一つだけ、加えて尋ねた。
有田「村山先生との戦績は?」
豊川「公式戦では僕が負けてるんですけどね。でも次にやったら負けないですよ」
と音二郎は笑った。もちろん、次はない。だから、ガイドは豊川の代わりに言いたい。
「だめだよ、村山くん。次をなくしちゃ」
早すぎる死。村山聖は伝説となった。だが「だめだよ、村山くん」と言われ続けた金太郎の存在は、伝説より素晴らしい現実なのである。
村山聖……。その名は子ども達のあこがれの大会『村山聖杯将棋怪童戦』として、残されている。そして、この大会では村山の実母(トミコさん)が子ども達の奮戦を見守っている。その目に映るのは……。
<追記>
この記事のためのインタビューを快諾してくれた上、電話まで下さり、なお激励いただいた豊川孝弘七段に心から感謝します。
【敬称に関して】
文中における個人名の敬称について、ガイドは下記のように考えています。
プロ棋士の方の活動は公的であると考え、敬称を略させていただきます。ただし、ガイドが棋士としての行為外の活動だと考えた場合には敬称をつけさせていただきます。アマ棋士の方には敬称をつけさせていただきます。その他の方々も職業的公人であると考えた場合は敬称を略させていただきます。
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