受験当日に「プロの世界」を初めて目撃、
てっきり「落ちた…」と思い込んだ上川少年
終演後の取材にもじっくり、丁寧に応えてくれた上川一哉さん。(C)Marino Matsushima
「おっちょこちょいで、よく“落ち着きがない”と言われていました(笑)。山がちの土地柄もあって、ずっと走り回っていましたね」
――12歳でジャズダンスを始めたのですね。
「先輩が踊っているのを観て、僕もやりたいなと憧れたんです。小学6年生の時には“ダンスをやっているんだったら一緒にやろう”と言われて、市民ミュージカルにも参加しました。島根の女の子が環境についての漫画を描くという、有名な実話の舞台化なのですが、今から思えば、振付家の山田卓先生や舞台美術の土屋茂昭さんといった、劇団四季ゆかりの方々が関わっている舞台でした。でも僕は誘われて参加しただけで、その時点ではミュージカルをやりたい!という気持ちは芽生えていませんでした」
――その後、四季を受けた理由は?
「僕は高校生の頃“よさこい”にはまっていまして、そこの代表が劇団四季出身の方で、“社会勉強として、劇団四季を受けてみろ。日本にはこういうところもあるとわかる、いい機会だ”と勧めてくれたんです。オーディション当日は“来るところを間違えた……”と思うほど、度肝を抜かれました。島根県という地方で育ってきたので、こんなにたくさん舞台を目指している人たちがいるんだ、と。ただただ圧倒されながら、ずっと会場の隅っこにいて、受かる予感は全くなかったです(笑)。周囲も全く受かると思っていなかったから、僕の中ではしばらくすると、受験したことすら記憶が薄らいでいましたね。そんな中で一通の封筒が届いて、“落ちたな”と思いながら開封したら、合格通知でした(笑)。周囲からは、合格して逆に“大丈夫なの?”と心配されましたね。でも、研究所はとても厳しくて、半年後に中間試験、その半年後に卒業試験があって、合格できなければ入団できないと聞き、やれるだけやってみたいと思って入所したんです。僕のような俳優もいるんですよ(笑)」
――研究所時代はいかがでしたか?
「これは今や“ネタ”になっているのですが(笑)、僕はバレエの“バ”の字も知らなかったので、リハーサル室のバーを“モノを掛ける場所”だと思ったんです(笑)。そんなに掛けるものがあるのかな、というのが第一印象でして。でも逆に、それくらい無知だったのがよかったのか、周りのレベルが高かったことで、いろんなことを聞けましたし、自分がなかなかできないことには苛立ちましたけど、すごく楽しかったです。すべてが新鮮で、もっともっと勉強したいと面白かったですよ。もちろん始めは周りの人たちの会話にもついていけず、恥ずかしかったです。こちらは地方から出てきた18歳でまだまだ子供で、いっぽう周りの人たちはすごく背が高く見えました」
『人間になりたがった猫』(2013年)撮影:阿部章仁
「いえ、研究所にいたときです。といっても周りがどんどん他の作品に出演していたので、僕は遅いほうでした。初舞台は足が震えましたね。総稽古といって、稽古場での最後の稽古でがくがくしていたのを鮮明に覚えています。対照的に、実際の舞台は無我夢中で、実感がなかったですね。終わって“舞台を踏めたんだ……”と、ちょっとぽわんとしていました(笑)。全国公演の一環で、千葉の市川のホールでしたね。劇団の先輩方から、その日初舞台の人にお花を一輪づつプレゼントしていただいて、“初舞台に立ったんだ”と思えました。
この作品には数年後、主人公のライオネル役でまた戻ってくることができました。ライオネルはアンサンブルに出させてもらった時からいつかやりたいなと思っていたので、キャスティングされた時にはとても嬉しかったです」
――13年にもライオネルを演じられましたよね。この時、子連れ観劇をしたのですが、一つ忘れられないことがあるのです。終演後の“お見送り”の時、自由劇場のロビーで、上川さんは身長90センチくらいしかない我が子が歩いてくるのを見て、とっさに腰をかがめて握手して下さったんですよ。子供と同じ目線に立って話したり握手してくださって、親子で感激しました。
「母が保育の仕事をしていて、僕も子供が近くにいる状況に慣れていたので、自然にそうなったのかもしれません。子供はとても好きなので、そう言ってもらえると嬉しいですね。当時の気持ちは絶対忘れちゃいけないと思うので、ライオネルは僕に取ってすごく大事な役ですが、若手の人たちが憧れる役であることも知っているので、今後はどんどん彼らに挑戦していってほしいと思います」
*次頁では『春のめざめ』『キャッツ』そして『ユタとふしぎな仲間たち』東北公演について語っていただきました!