マンション相場・トレンド/マンショントレンド情報

100年前のマンションから気づく住宅選びの2つの視点

今から100年前の1916年に日本初の鉄筋コンクリート製の集合住宅が建てられました。その場所とは、長崎県の端島。昨年世界遺産に指定された通称「軍艦島」に建てられた「30号棟」です。「必要は発明の母」ということわざがあるように、島は、優良な炭鉱として明治以降の日本の発展を支えました。今にも通じる当時の最先端の街づくりの面影が残る島を訪ね、マンションに求められるものを考えます。

岡本 郁雄

執筆者:岡本 郁雄

マンショントレンド情報ガイド

最大5,300人もの人が住んだ南北約480m 東西約160mの小島
100年前にスタートした新しい街づくり

長崎の景色

長崎の景色

今から100年前の1916年。日本初の鉄筋コンクリート造7階建ての高層アパートが建てられました。その場所は、長崎県の端島。2015年に「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に指定された長崎県の端島炭鉱(通称軍艦島)です。造船業の盛んな長崎県ですが、かつては三菱石炭鉱業(株)の主力炭鉱の一つとして、石炭産業が盛んに行われました。
端島の外観

端島の外観

端島は、南北に約480m、東西に約160m、周囲約1200m、面積約63,000平米という小さな小島です。現在の広さも過去6回に及ぶ埋め立てでこの大きさになっています。端島や高島の位置する海底一帯からは、良質の石炭が採れます。端島は、その海底炭鉱に入る道があり、出炭量が増加するにつれ多くの人が生活する為に必然的に高層集合住宅が建てられたのでした。
小中学校

現在の端島の景色 正面に見える建物は、小中学校

島に上陸して、まず目にするのはかつて小中学校だった7階建ての建物です。最盛期の昭和35年ごろには、約5300人の人が住んでいたとのこと。1階から4階までが小学校、5階と7階は中学校で6階には図書館や音楽室が設けられていたとのことです。多くの人が生活する為に、病院や商店などもつくられていました。
第二竪坑櫓

第二竪坑櫓

さらに進むと、坑道へのアクセスとなる竪坑の上に建つ竪坑櫓が目に留まります。竪坑とは、鉱員の昇降や石炭の荷揚げ、通気などの目的でつくられた垂直の穴。地下約600m超の深さまでケージで昇降するものです。櫓に続く階段は、黒く光っていて、かつての鉱員の頑張りを今に記憶しています。
かつてのプール

かつてのプール。当時水は貴重で海水を使っていた

さらに進むと、箱状のスペースの跡が見えます。こちらは、かつてのプールとのこと。25mプールと幼児用のプールがありともに海水を使っていたようです。本州から離れた小島で、水は貴重な資源で当初から水不足には悩まされたようです。
貯水槽

島の頂にある貯水槽

島の頂を見上げると、大きな貯水槽が見えます。蒸留水、給水船による水確保の時代のあと、昭和32年に日本初の海底水道が完成。水道がようやく家庭に十分届けられるようになりました。
30号棟

日本最古の鉄筋コンクリート造の高層アパートである30号棟

さらに足を進めると、7階建ての格子状の建物が見えます。これが、日本最初の鉄筋コンクリート造7階建ての集合住宅「30号棟」です。鉱員社宅として建設され、ロの字配棟で中央部は吹抜けになっている。間取りは、6畳一間とキッチンの1Kタイプで専用の風呂場は設けられていません。
30号棟と奥の31号棟

30号棟と奥の31号棟

30号棟の隣には、31号棟が見えます。こちらには、一般用の共同浴場がつくられ理髪店や郵便局も設けられていました。島が賑わうにつれ生活施設も順次増えていったようです。
小中学校

かつての小中学校の前には、グラウンドもある

ツアーを利用して上陸した軍艦島ですが、建物の老朽化が激しく危険なため陸路で見学できるのは、限られたゾーンです。周囲が海の小島は、波も激しく貯炭場のあった南東側が約8m、住居棟が続く西北側が約12mの護岸で守られていますが、所々破砕されています。歩いていて、厳しい環境の下で街がつくられていたことがわかります。今も波が高い日は、安全の確保が難しく上陸ができません。当日は、天候が良く穏やかでしたがガイドによれば、目まぐるしく天候も変わるようです。

屋上緑化も実施 神社もあった
ワークプレイスは、住宅価値に大きく影響する

軍艦島の模型

高島にある高島石炭資料館前に設置された軍艦島の模型

島の一部の住宅には、屋上緑化も行われたようです。島は、石炭を採掘する際にでる不要物で埋め立てられたため土がほとんどありません。子供の教育も考えて自然が人工的につくられたようです。また、島には、映画館やパチンコなどの娯楽施設もありました。最盛期の人口密度は、東京の約9倍。道端で行商人が青空市場を開くなど、生活の知恵も垣間見えます。島の頂には、端島神社もました(現在は祠のみ)。おおよその施設は、島内にあったようですが、火葬場は島内になく他の島で行っていたとのことです。

ガイドや街の人の話によると、炭鉱での仕事は労働環境が厳しい反面、給料は良かったそうで、テレビの普及率が8%だった時代にいち早くほぼ100%の家庭がテレビを持っていたとのことです。社宅のため家賃はかからないので、その分生活も豊かだったようです。
西側から見た端島(軍艦島)

西側から見た端島(軍艦島)

多くの良質の石炭を採掘し、明治以降の日本の産業を支えた軍艦島ですが、日本のエネルギー政策の転換にともない昭和49年1月15日に閉山。4月20日には島民の退去が完了し無人島となり今に至っています。

見学を終えて感じたのは、ワークプレイスと住宅との大きな関連性。時代ごとの職場の存在が、住宅ニーズにも密接に関連します。関東大震災以降に首都圏で建てられた16の同潤会アパートは、上野下アパートを最後に昨年で全てが新しく生まれ変わりました。就業の場があるかどうかは、住宅としての価値の重要な要素と言えるでしょう。
長崎の夜景

稲佐山の展望台から見た長崎の夜景

もう一つ感じたのは、使われなくなったメンテナンスしない建物の老朽化の激しさです。表参道の同潤会アパートは、70年を経ても使われました。堅固で使い勝手が良いとされ普及した鉄筋コンクリート造りですが、メンテナンスされないと傷みやすい。補修レベルで建物を復元するのは難しいようです。長生きする住宅とは、耐久性だけでなく利用する価値があり定期的に修繕・補修するなど人の手を加えることが重要であることを実感しました。

マンションの誕生から100年経ちましたが、間取りや設備仕様だけでなく、共用施設や耐震性などが大きく進化しました。一方、かつて端島(軍艦島)にもあったようなコミュニティの重要性も認識されており活性化の取り組みも具体化しています。そうした暮らしの原点が、端島(軍艦島)にはあったのだと思います。



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