「将棋と推理は似ている」

将棋は推理小説に似ている/イメージ

将棋は推理小説に似ている/イメージ

たとえば、『将棋ガイドも“まいりました”、思わず唸る推理小説9選』には、こう書いた。

「将棋と推理小説は似ている。この手で行けば、敵はこう来るであろう……王将を追い込んでいく様は、真犯人に迫る探偵に重なる」

実は本作品は、それを地で行く、いや、証明してくれたミステリーなのだ。例を挙げよう。外田が犯人を追い詰めたときの場面である。セリフにご注目願いたい。

 

「ハイ有難うございます」ばん。外田は手を拍(う)った。「王手」 / 『カシオペアに乗る』より
犯人を追い込み「王手」の一言。ああ、我が意を得たり。まだまだ、こんなものじゃない。この後、犯人の反論が来るが、それも読み筋の外田は、こうしゃれるのである。

「これは王手でござんして」と外田。 「王手詰みじゃあござんせん」 / 同上
くーっ。いかがであろう、このセリフ。もう愛棋家なら気を失いかねないシーンだ。犯人の抵抗に対して、「これは単なる王手ですよ。ここからが詰みなんです」と切り返しているのだ。そして、完璧と思われた犯罪のほころびを指摘する外田。うなだれる犯人。とうとう、犯人までがこう語る。
序盤戦から悪手の連発か」 / 同上

『のぞみ号に乗る』

収録されている2作目は『のぞみ号に乗る』だ。これにも……。

「奥様、王手詰めでござんす」 / 『のぞみ号に乗る』
そして、外田から自白を促された奥様(私)は……。
「……おたのもうします」私は投了した。 / 同上
「王手詰め」に「投了」。もう気絶である。しかも、この将棋モードは続く3作目『あずさ2号に乗る』にも、しっかり踏襲されている。ガイドは感涙を隠さず、3編を一気読みだ。そして、本書の最終作『市内線に乗る』にいたるのである。はっきり言おう。これこそ、トリ。いや、卒業回のサブちゃんを思わせる大トリの作品だったのである。

『市内線に乗る』

愛棋家の皆さん、悶絶していただきたい。本作は、なんとなんと、名人戦が舞台なのである。きゃーっ!それも、永世名人位をかけた名人と七冠をねらう挑戦者が火花を散らす戦いだ。うぎゃーっ。いかん、読書中の興奮が蘇り、擬音を多用してしまった。

現実世界の名人戦さながらの描写

現実世界の名人戦さながらの描写

その描写は、まさしく精緻の至極。会場の雰囲気、対局者の思い、関係者の気配り、ファンのまなざし、揮毫、奨励会、そして、封じ手や盤駒、扇子に至るまで、もう、臨場感抜群なのである。ああ、やっぱり、叫びたい。

 
作者は、この『市内線に乗る』に、特別の思い入れがあるのだろう。この作品のみが、冒頭での読者への犯人提示がない。第一章から特別感が漂っているのである。いや、作者だけではない。主人公・外田警部自身が特別な思い入れを持って事件に臨んでいる。無理もない。外田もガイド同様、大の将棋ファンなのだ。ひょんなことから、名人戦の警備を任された彼は、ずっと緊張しっぱなしなのである。名人や挑戦者を神とあがめ、憧れる男の舞い上がり、高揚感。それが、ひしひしと伝わってくるのだ。

前述のガイド同様、感動を叫びたい衝動にかられている外田。対局が始まってしまえば、警備は一段落。一ファンとして雌雄の行方を見守ろうと心弾ませ、うきうきの外田。しかし、それでも事件は起きてしまう。未読の方に邪魔にならぬよう、少しだけ触れるにとどめるが、実は事件かそうでないかもはっきりしない曖昧な展開。そして、究極の名人戦は、意外な結末を迎えることになる。事件性をどこかで感じながら、そうはしたくない葛藤、苦悩。外田の揺れ動きに、愛棋家ならずとも涙を誘われるに違いない。

ここに至れば、ミステリーと言うより、心理ドラマである。皆様、ぜひぜひ、お読みいただきたい。そして、将棋と推理は似ていることを体感していただきたい。

最後に将棋テイストたっぷりの大トリを聴いていただこう。
「外田警部」 いい駒音が、聴こえる。 「一局だけですよ」
「危所に、遊びましょうわい」 / 『市内線に乗る』最終場面


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追記

「敬称に関して」

文中における個人名の敬称について、ガイドは下記のように考えています。
(1)プロ棋士の方の活動は公的であると考え、敬称を略させていただきます。ただし、ガイドが棋士としての行為外の活動だと考えた場合には敬称をつけさせていただきます。
(2)アマ棋士の方には敬称をつけさせていただきます。
(3)その他の方々も職業的公人であると考えた場合は敬称を略させていただきます。
 
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