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プロレスラー藤波辰爾が殿堂入りしたWWEでの功績とは

世界最大のプロレス組織WWEが藤波辰爾のホール・オブ・フェーム(名誉殿堂)に迎え入れられました。これは日本人レスラーでは2010年のアントニオ猪木に次ぐ快挙です。藤波はWWEで初めてチャンピオンになった日本人レスラーでもあります。改めて藤波の偉大な功績を検証しましょう。

小佐野 景浩

執筆者:小佐野 景浩

プロレスガイド

藤波辰爾の凄さとは

世界最大のプロレス組織WWE(ワールド・レスリング・エンターテインメント)がホール・オブ・フェーム(名誉殿堂)を設立したのは1993年。この年の1月27日に46歳の若さで急逝した「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアントの生前の功績を称えるというのがきっかけでした。

プロレス,藤波辰爾

WWWFジュニア・ヘビー級王者時代の藤波辰爾


それから22年後、日本人レスラーで殿堂入りしたのは2010年のアントニオ猪木だけでしたが、とうとう藤波辰爾が選ばれました。現役で殿堂入りというのにも大きな意味があります。

24歳の無名の日本人が世界の檜舞台で王者に!

2018年5月でプロレスラー人生47年になる藤波ですが、当初は将来を期待された男ではありませんでした。1970年6月に16歳で日本プロレスに入門した藤波は、格闘技経験がなかったため、デビューまで1年近くかかりました。やっとデビューした半年後の1971年暮れ、付け人を務めていた猪木に追従して日プロを飛び出し、1973年3月の新日本プロレス設立に参加。黙々と前座を務めていた藤波の転機になったのは、デビューから5年後の1976年6月に海外武者修行に出たことです。

最初、ドイツで半年間試合をした後、1976年12月からはアメリカに飛び、フロリダ州タンパの「プロレスの神様」カール・ゴッチの自宅に住み込んで半年間、トレーニング漬けの毎日を過ごしました。そして、ノースカロライナで9ヵ月間、メキシコで9ヵ月ファイト。

この修行によって、藤波は猪木とゴッチのストロング・スタイルをベースにヨーロッパ・スタイル、アメリカン・スタイル、メキシコのルチャ・リブレ(スペイン語で自由な戦いの意味)を取り込んだ、今までにないスタイルのプロレスラーに成長しました。

師匠・猪木は1977年12月に帰国命令を出しましたが、藤波は拒否。国際電話で「余程、覚悟を決めているんだろうな。今度はいつ帰れるかわからないぞ」と猪木に言われても、藤波は「まだ海外にいさせてください」と懇願。当時を振り返って藤波は、「プロレスラーになる時に海外に出るというのも大きな夢だったし、2年半も海外に出ていて、不自由なく生活していて、好奇心が旺盛な年頃だったから、もっといろんなところを見て回りたかったんですよ」と言います。

結果的には、この時に帰国しなかったことで藤波に信じられない展開が生まれました。藤波の決意を知った猪木と新日本プロレスはアメリカで大きなチャンスを与えます。世界の檜舞台ニューヨークのMSG(マジソン・スクエア・ガーデン)でWWE=当時はWWWF(ワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション)のジュニア・ヘビー級王座への挑戦という舞台を用意したのです。

1978年1月23日、超満員2万2000人のMSGのリングに立った藤波は、それまで誰も見たことがない「ドラゴン・スープレックス」で王者カルロス・ホセ・エストラーダを撃破してWWWFジュニア・ヘビー級王座を奪取。24歳の無名の日本人レスラーが世界の檜舞台でチャンピオンに駆け上がった姿は、まさにアメリカン・ドリームでした。

藤波がジュニア王者になった1ヵ月後には、レスリング出身のボブ・バックランドがヘビー級の王者になりました。28歳のヘビー級王者と24歳のジュニア・ヘビー級王者は、パワーファイターの時代からテクニシャンの時代に移行した新時代のWWEの象徴になったのです。藤波は時代に要請されたチャンピオンだったと言ってもいいでしょう。

国際的なジュニア王者として日本とWWEの懸け橋に

アメリカ・マットでは、日本人は基本的にヒール(悪党)です。しかし、藤波はベビーフェースとしてWWEのファンに認識されました。昔の日本人レスラーは裸足のヒールというのが定番でしたが、藤波はMSGでジャンボ鶴田、猪木に次いで3番目にリングシューズを履いて試合をした日本人レスラーです。

「ゴッチさんからノースカロライナのサーキットに入る時に『アメリカのプロレスに同化せずにお前のスタイルで行け。このタンパで練習したイメージを絶対に忘れちゃダメだ』っていうのがインプットされていたので、ニューヨークに入ってからも動きにしてもフィニッシュ・ホールドもその通りにやっていましたね。それにMSGでベルトを獲ったということで、結構自分の名前も知れていたから、ファンもベビーフェースの日本人レスラーであると認識して試合を見てくれました」と藤波は言います。

一夜にしてトップ選手の仲間入りしたタツミ「ドラゴン」フジナミは、多忙を極めました。王者になった1ヵ月後に日本に凱旋帰国し、若い女性を中心にドラゴンブームが起こりましたが、日本のシリーズ中にもニューヨーク、ロサンゼルス、メキシコを駆け巡るジュニア王者として活躍し、WWEと日本プロレス界の懸け橋になりました。1979年1月から1ヵ月半は日本を完全に留守にしてWWEをサーキットしています。

この長期遠征の直前、藤波は交際していた現在の夫人の伽織さんに「3年待ってほしい」と電話でプロポーズしたのは有名なエピソードです。その藤波と伽織さんは何とMSGのリング上で婚約発表しました。

1981年6月8日のMSGでザ・グレート・ヤツ(谷津嘉章)と組んで、レックス&スポットのザ・ムーンドッグスのWWF世界タッグ王座に挑戦して2-0でストレート勝ちした後(1本目が反則勝ちだったため、ルールにより王座奪取はならず)、リングアナウンサーのジョン・ダイバーが「我々のジュニア・ヘビー級チャンピオンの藤波が今日、婚約しました。婚約者は今、リングサイドにいるミス・カオリ・ヌマタニ(沼谷伽織)です!」と紹介。藤波と伽織さんは2万2千人の大観衆に祝福されたのです。それはWWEと新日本が共同で用意したサプライズでした。

ヘビー級に転向した1982年8月30日にはMSGでジノ・ブリットを撃破してWWFインターナショナル・ヘビー級王座を奪取、1983年5月には3週間の長期遠征。最後のWWE登場は1985年4月22日のMSGで、マット・ボーンにジャーマン・スープレックス・ホールドで勝っています。

それから実に20年後、藤波はレジェンドとしてWWEに招待されることになりました。2015年3月28日にカリフォルニア州サンノゼSAPセンターにおける受章セレモニーに出席、翌29日にはカリフォルニア州サンタクララのリーバイス・コロシアムにおける世界最大のプロレスイベント『レッスルマニア31』のリング上から挨拶したのです。

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