格闘技生活にピリオド

天龍源一郎は、2015年11月に引退を発表しました。大相撲で初土俵を踏んだのは13歳(中学2年生)の時の1964年1月。最高位・前頭筆頭まで昇進しながら、1976年10月に26歳でプロレスに転向。39年のプロレス生活、51年11カ月の格闘技生活にピリオドを打つことを決意したのです。

全日本プロレスでは三冠ヘビー級王者にもなっている天龍

全日本プロレスでは三冠ヘビー級王者にもなっている天龍


あらゆるジャンルの大物を撃破して得た称号

天龍は、昭和が生んだ二大巨頭のジャイアント馬場、アントニオ猪木をフォールした唯一の日本人レスラーとして、「ミスター・プロレス」と呼ばれています。師匠である馬場には1989年11月29日、札幌中嶋体育館の「世界最強タッグ決定リーグ戦」公式戦のタッグマッチで、パワーボムを炸裂させて勝利。それは、馬場がトップレスラーになってから、日本人に初めてフォール負けした歴史的瞬間でした。

その師匠・馬場のライバルだった猪木とは、1994年1月4日の東京ドームで闘い、これもパワーボムで勝利。天龍以後は、三沢光晴が馬場をフォール、天龍以前に長州が猪木に勝っていますが、馬場と猪木の2人をフォールしたのは天龍だけなのです。「同じ時代に生きた証として、その時に旬な選手と肌を合わせてみたい」と貪欲に闘いを求めた天龍の姿勢は、ファンに多くの夢の対決を提供しました。

全日本プロレス時代は、それまでの「日本人vs外国人」の図式を崩し、ジャンボ鶴田との鶴龍対決を実現させ、全日本を退団した後は、自ら旗揚げしたWARとして、新日本プロレスに対抗戦を挑み、そこで長州力、藤波辰爾、猪木、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也、佐々木健介、武藤の別人格のグレート・ムタら、新日本のトップレスラーとのシングルマッチを次々に実現させました。

もちろん負けた試合もありますが、最終的には全員に勝っています。2004年に、フリーランスとして新日本に参戦したときには、若き日の棚橋弘至、中邑真輔、柴田勝頼とも対戦しました。その他、1994年5月5日には「みんなが邪道と言うけれど、俺が自分の体で確かめてやる」と川崎球場で大仁田厚と電流爆破デスマッチを敢行して勝利。これが、大仁田にとっては電流爆破マッチでの初の敗戦でした。

全日本、新日本、邪道で闘った天龍は「残るのはUWFスタイルだけ」と、96年には高田延彦と対戦。初対決では敗れたものの、再戦では雪辱を果たしました。こうして、プロレスのあらゆるジャンルで闘い、勝利したことで、天龍は「ミスター・プロレス」と呼ばれるようになったのです。

タイトル歴も、全日本では三冠ヘビー級、三冠に統一される前のPWFヘビー級とUNヘビー級、世界タッグ、世界タッグに統一される前のインターナショナル・タッグとPWF世界タッグ、アジア・タッグ、新日本ではIWGPヘビー級、IWGPタッグ、自ら興したWARでは力道山所縁の日本IJ選手権、WAR世界6人タッグ、アメリカではNWA世界6人タッグ、NWAミッドアトランティック・タッグと「ミスター・プロレス」にふさわしいものです。

団体を問わず今のプロレスに受け継がれている天龍イズム

しかし、天龍が尊敬の念を持って「ミスター・プロレス」と呼ばれるのは、その実績だけではありません。むしろ、天龍のプロレスに対する姿勢への賛辞という意味の方が大きいと思われます。

1987年6月、全日本プロレスは存亡の危機に立たされていました。それまでの2年間は、新日本プロレスを離脱した長州が、ジャパン・プロレスとして全日本に上がって鶴田、天龍と抗争を繰り広げ、全日本マットを熱くさせていましたが、この年の春に長州は新日本にUターン。全日本から熱気が消えました。

このときに、「俺がジャンボ鶴田、輪島大士を本気にさせて、全日本を活性化させてやる」とスタートさせたのが天龍革命(レボリューション)でした。当時のプロレスは、週1回のテレビ中継の日の大会が重要でしたが、天龍はテレビ中継がなかろうが、地方の小さい会場だろうが、まるでタイトルマッチのような激しい試合を行い、現場で取材する報道陣を驚かせました。

「まずは、毎日取材に来るマスコミと勝負だ。マスコミの人たちが常に新鮮に思える試合を提供しなければ、ファンが振り向くわけがない」というのが天龍の考えだったのです。

「たとえお客が入っていなくても、その少ないお客さんが満足してくれれば、次に来た時には友達を誘って来てくれるだろう。そうすれば次は2倍、3倍になるはず」と、ガラガラの会場でもムキになって試合をしていた天龍は、「テレビはあくまでも予告編。テレビを観て面白いと思ったら、ぜひ会場に来て生の俺たちを見てほしい」と訴えました。結果、1シリーズを終えると、次から後楽園ホールが満員になり、地方も観客動員が増えました。

天龍革命スタートから2カ月後の1987年8月31日の日本武道館での鶴田との一騎打ちのときには、「素晴らしいプロレスをありがとう!」というファンの横断幕が張られていたのが印象に残っています。

天龍は、1990年春に全日本を去りましたが、その精神は当時の若手だった三沢、川田利明、田上明、小橋建太らに受け継がれました。彼らは天龍に憧れ、そして「天龍さんに負けたくない」と必死に頑張り、四天王プロレスを確立し、全日本に平成黄金時代をもたらしました。今の新日本を見ていると、暗黒の時代から今の隆盛に導いた棚橋の姿勢に天龍を感じます。

試合に関しては「何をやってきても構わないよ。その代り、俺もガンガン行くよ」という姿勢が若い選手の尊敬を集めました。2005年7月に、40歳の若さで急逝した橋本真也は、天龍の胸を借りることでスランプから脱して新日本のエースになり、「俺もいつか、あんな凄いおっさんになりたいと思います」と言っていました。

世界一性格の悪い男・鈴木みのるも「俺にたくさんのモノをくれた、たくさんのことを教えてくれた」と敬意を隠そうとしません。何歳になっても上から目線にならず、若い選手とムキになって闘う天龍は、「かくありたい」という憧れでもあるのです。

天龍は、引退を決意した理由のひとつに、大病を患った夫人を支えることを挙げていました。それを聞いた時、私は20年以上も前に聞いた以下の言葉を思い出しました。

「ファンは、俺の心の中で漠然と『いるだろうな』っていう希望。その希望を胸に試合をやっているんだけど、最終的に行き着くところは家族。『こいつらのために!』っていうのは思うよ」

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