曰く、「谷川さんの将棋は美しい」
谷川さん……。現・日本将棋連盟会長であり、「永世名人」の称号を持つ谷川浩司のことである。対局における谷川の立ち居振る舞いは、まさしく美しい。棋道の礼節そのものの姿は、磨き抜かれた鏡面のように静謐(せいひつ)である。
谷川の所作
2015年、彼が紫綬褒章を受章した折に、関西経済連合会・会長の森詳介氏はこう語った。「日本文化の気高さを体現されている」/森詳介氏(『将棋世界2015年7月号』)
プロ棋士達も同様だ。たとえば、郷田真隆(過去記事)。
羽生善治(過去記事)は、こう語った。「谷川さんの対局姿の美しさをいつも感じています」/郷田(同)
かように谷川の姿を讃える声は引きも切らない。「谷川先生には所作といいますか、棋士としてのあり方を教えていただいたこともあります」/羽生(同)
しかし、である。しかし、谷川の美しさは、その佇(たたず)まいのみにあるのではない。今回は、谷川将棋の美しさについてガイドしたい。
光速の寄せという帰着
ずっと谷川に憧れていたという「永世棋聖」佐藤康光が語る次の言葉が今回のガイドの入り口となる。佐藤自身も、一秒間に1億3手読むと言われる恐るべき棋士である。「谷川先生の対局姿や佇まいは光速の寄せに通じる美しさがあると思います」/佐藤(同)
すべての道はローマに通ずというが、谷川を見続けてきた佐藤が、その美しさには光速の寄せと言う帰着点があると語っているのだ。「光速の寄せ」とは何なのか、なぜ、谷川はそこをローマにしたのか。
簡単に言おう。寄せとは終盤の攻めのことである。
そのスピードが天才集団・プロ棋士間でも群を抜いて速かった谷川。目の当たりにした者達は驚嘆し「光速の寄せ」と呼んだ。そして、谷川自身もその言葉をしっかりと受け止めている。揮毫(きごう)の文言ともし、著書にも「光速」を冠にしたタイトルをつけている。
断っておくが、谷川は非常に謙虚である。少し、例を挙げよう。
史上最年少で名人位を獲得した時の言葉は、伝説のように語り継がれている。
「名人位を1年間預からせていただきます」/谷川
また、初防衛の時の言葉も語り草だ。
「これで弱い名人から、並みの名人になれたと思います」/谷川
その谷川が「光速」という最高級の讃辞を受け入れ、自ら使うとは、なかなか考えにくい。だが、この「光」という言葉には、実は谷川の求める美しさの背景があるのだ。これはガイドの解釈であり、後述する。
棋士は芸術家である
谷川は、棋士は芸術家でもあり、棋譜は作品であると言う。そして、その作品は対局相手と二人で創るものだとの信念がある。こんな言葉も紹介しよう。1996年、羽生に敗れ、前人未踏の七冠を許した時の言葉である。この言葉も、谷川が、棋譜を相手との共同作品であると考えている証左となり得よう。「ファンの皆さんにも、羽生さんにも申し訳ない」/谷川
将棋という競技は自分が一手指せば、次は相手の手を待つしかないのである。たとえば柔道のように連続して技をかけるわけにはいかないだ。それでも、勝負の主導権は自分が握りたいと思うのが当然だが、谷川はそこを超越している。少なくとも、超越したいと考えている。ゆえに、作品と呼び芸術として語るのだ。
谷川はプロ棋士である。プロとは、観ている者にその全景の解釈をゆだねる宿命を背負っている。ここからは、私という観戦者が解釈した谷川論となる。それを承知の上でおつきあい願いたい。