「一番歌がうまい歌手はだれか」

音楽好きの方なら一度はそんな疑問を持ったことがないだろうか。

『2ちゃんねる』や『Yahoo!知恵袋』などでもああだこうだとランキングを作ったり思い思いに意見を出す人は多いが、この件に関しては自由参加のウェブ上でまともな答えなど出るはずがない。

"素人″、"そこそこ″、"個性派″、"本格派″などだいたいのランク付け、分類はできるだろうが、境界線は決める人によって微妙に異なるだろうし、対象歌手への好き嫌いが先行するあまり正当な評価ができなくなっている人も多く見受けられるからだ。

まただいたいのランク付けはできても「この人が2位でこの人が1位で……」みたいなことはそれこそ独善的すぎるしナンセンスに思われる。

しかし!

そういう理性を押してでもランク付けを楽しみたいという俗情もよくわかる。

湧き出づるかな我がサービス精神。

今回はあくまで僕の価値観を信頼してくださる親愛なる読者の方に向け、1980年代までに活躍した男性歌手の中から「最高峰」と信じる五人を紹介したい。

個別の順位はつけない。

玉置浩二

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1958年生まれ。北海道出身。1982年に『安全地帯』のボーカルとしてデビュー。完成度の高い楽曲と歌唱力、斬新なサウンドで『ワインレッドの心』(1983年)、『恋の予感』(1984年)、『悲しみにさよなら』(1985年)などをヒットさせる一方、ソングライターとしても多くのアーティストに楽曲を提供し一時代を築いた。ソロでも『キ・ツ・イ』(1989年)、『田園』(1996年)などのヒットを持つ。

1980年代の全盛期をご存知の方はもちろん、近年『FNS歌謡祭』(フジテレビ)などの音楽番組で知った方も理解していただけると思うが、この人ほど一曲で場の雰囲気をさらってしまえる人はなかなかいない。

玉置浩二の魅力はピッチ(音程)とリズムの正確さ、そして歌い上げるようにも、ささやくようにも、ファルセットでも、叫ぶようにも歌える幅の広さにある。民謡教室を開いていたという祖母の影響、十代でバンドを結成するに至らしめた和製ポップスやレッド・ツェッペリンドゥービーブラザーズなど洋楽ロックの影響など、それ以前の世代の歌手ではなしえなかった新旧さまざまな音楽との出会いが彼の歌唱法を形成していったのだろうか。

最近のフェイクやシャウトを多用した崩した感じもセクシーでいいが、個人的にはデビューから1990年代半ば頃までの(その間も変化はあるが)きっちりしたテクニック重視の歌い方が好きだ。『恋の予感』『碧い瞳のエリス』(1985年)、『メロディー』(1995年)などがわかりやすい例だと思う。はっきり言って同時期にヒットを放ち、音楽番組で共演していたどの歌手よりもウマい!

また1989年に主演したドラマ『キツイ奴ら』(TBS)などで見せているように、この人は『コモエスタ赤坂』(ロス・インディオス)などの歌謡曲を歌わせてもピカイチだ。レベルの高い歌手は自分の曲に限らずいろんなジャンルの曲を上手に、魅力的に歌える。時にはオリジナルを超えるくらいに。今後も後進の歌手の手本として長く活躍してもらいたい存在である。

 

五木ひろし 

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1948年生まれ。福井県出身。1965年に松山まさる名義でデビューするが低迷。数度の改名、再デビューを経て1971年に五木ひろし名義でリリースした『よこはま・たそがれ』のヒットで認知される。以後、『待っている女』(1972年)、『おまえとふたり』(1979年)、『長良川艶歌』(1984年)などポップスの影響を受けた都会的な演歌から本格演歌までさまざまな楽曲をヒットさせ、演歌シーンを代表するスターとして現在に至っている。

デビューから約50年を経て今なお堂々たる第一線の歌手として演歌界に君臨する五木ひろし。この人の凄さは演歌を完全にポップスとして現代音楽に昇華したところにある。

五木以前の演歌歌手にはコブシや独特の節回しを先行させるあまりピッチ、リズムの悪い人が多かった。西洋音楽的な素養に欠けていたのだ。

しかし五木はデビュー当時からド演歌を歌ってもポップス的な曲を歌っても崩れることがない。歌唱法にしても『暖簾』(1989年)で実にしみじみと聴かせたかと思えば『契り』(1982年)ではテノールのように壮大に歌い上げ、『待っている女』ではロック歌手さながらの前のめりな激しさを見せるといった具合に確固とした”五木節”を持ちながらも実に多様でメリハリがある。演歌ファン以外にも「おっ!」と思わせるだけのクオリティがある。これは彼に、積極的に時代が求める音楽的要素を取り入れて自分のものにしていけるだけの素養があったゆえだろう。

もっとも顕著な例が1976年から1978年まで毎年行われたラスベガス公演。当時の流行を反映して『KUNG FU FIGHTING』(カール・ダグラス)や『I Can't Give You Anything』(スタイリスティックス)などのディスコナンバーから果てはファンクアレンジの『ソーラン節』まで披露している(ライブアルバム『ラスベガス・オン・ステージ』(1976年)、『Songs Are My Wings  Hiroshi In Las Vegas '77"』(1977年)など)のだが、英語発音がつたないことを差し引いてもなお震えるほどのソウルとビートを感じる。当時の日本人歌手で……しかも演歌歌手で果たしてどれだけの人がディスコの黒いフィーリングを表現できただろうか。恐るべし五木ひろし。

これと言って有望な若手がなく寂しい限りの演歌界だが、だからこそ五木ひろしにはまだまだ元気で第一線の歌手として活躍していってほしい。

 

フランク永井

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1932年生まれ。宮城県出身。米軍クラブでの活動を経て1955年デビュー。”低音の魅力”と評された歌唱力とジャズに影響を受けたモダンな音楽性を活かして『有楽町で逢いましょう』(1957年)、『東京ナイト・クラブ』(1959年※松尾和子とのデュエット)、『君恋し』(1961年)、『霧子のタンゴ』(1962年)などをヒットさせた。1985年の事故以降は音楽活動から遠ざかっている。2008年逝去。

日本の戦後ポピュラー音楽の歴史は演歌的コブシや唱歌的な抑揚のない歌唱法からの脱却の歴史だった。その上でまずお手本になったのはアメリカのジャズやポップスだ。

フランク永井もまた少年期にそういった音楽に触れ歌手をこころざした一人。米軍クラブできたえたリズム感と”低音の魅力”と評されるセクシーな歌唱法は当時の男性歌手の中でもずば抜けて都会的で洗練されたものだった。『有楽町で逢いましょう』が素晴らしいのはもちろんだが、デビュー初期にリリースした『恋人よ我に帰れ』(1955年)や『バラの刺青』(1956年)などの洋楽カバーは彼の音楽性の神髄だ。ジャズやポップスを理解し、その技量をオリジナルの歌謡曲に活かした彼のスタイルはムード歌謡の源流の一つとなり1970年代以降のシティ・ポップにも間接的な影響を与えた。

1982年にはシティ・ポップの旗手、山下達郎のプロデュースで『WOMAN』をリリースしているが、それまで馴染みがなかった16ビートのリズムを見事に制して大歌手の貫録を見せつけている。本当に歌の上手い人というのは世代もジャンルも超えることができるのだとわかる例だ。

まだまだ活躍できる歌手だったのに、不幸にも道半ばで音楽シーンを去ってしまったことが残念でならない。

 

三波春夫

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1923年生まれ。新潟県出身。1939年に南篠文若名義で浪曲師として活動をスタート。1957年に歌謡歌手に転向して三波春夫名義で『チャンチキおけさ』(1957年)をヒットさせた。以後も『大利根無情』(1959年)、『東京五輪音頭』(1963年)、『世界の国からこんにちは』(1967年)などをヒットさせ国民的歌手として地位を築く。晩年までコンスタントに新曲をリリースし、若手とのコラボレーションにも取り組むなど精力的に音楽活動をおこなっていた。2001年逝去。

1960年代まで浪曲は音楽シーンで大きなシェアを占めていた。メロディー部分の”節”とセリフ部分の”啖呵”を三味線一本の伴奏に乗せるそれは、若い方からすると落語や講談と区別がつかないかもしれないが、三波春夫はそんな浪曲シーンから演歌、歌謡曲の影響を受けて登場した最初期の”歌謡浪曲歌手”である。

人それぞれにフリースタイルだった浪曲を西洋音楽の視点から再構築し、バンドやオーケストラの伴奏で歌うという三波ら歌謡浪曲歌手の試みは大きな反響を呼んだ。中でも三波がその第一人者として不動の地位を築くことができたのは、やはりその朗らかな声質とリズム感の良さ、新旧どちらにも寄れるバランス感の良さがあったゆえだろう。

当時の男性歌手で、三波ほど日本的なソウル感と西洋的なポップスセンスをあわせ持った者はいなかった。若者からもお年寄りからも受け入れられる希少な才能の持ち主だったのだ。当時のそうそうたる人気歌手たちと競作でリリースされた『東京五輪音頭』『世界の国からこんにちは』両曲とも、三波バージョンが圧倒的な最高セールスを記録したことからもそれがよくわかる。

ヒットという点では先に挙げたものや『ルパン音頭』(1978年)など浪曲性のない楽曲で有名な彼だが、『沓掛時次郎』(1959年)、『俵星玄蕃』(1964年)など歌謡浪曲の醍醐味を味わえる名曲も数多い。

また1990年代には『ジャン・ナイト・じゃん』(1993年)、『世直しロックンロール』(1994年)でそれぞれCHOKKAKU爆風スランプといった若手とコラボレーション。ハウスやロックなど新世代の音楽と歌謡浪曲の融合をはかっているが、これまたクオリティーが高く三波春夫というアーティストのポテンシャルの高さを見せつけられる。


尾崎紀世彦

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1943年生まれ。神奈川県出身。1967年にコーラスグループ『ザ・ワンダース』でデビュー。『ウルトラセブンの歌』(1967年※契約上の問題で『ザ・エコーズ』名義)などを手がけたのち1970年にソロ転向。日本人ばなれしたダイナミックであか抜けた歌唱力で『また逢う日まで』(1971年)、『さよならをもう一度』(1971年)、『ゴッドファーザー~愛のテーマ』(1972年)などをヒットさせた。スタンダード・ナンバーの歌唱にも定評があり、晩年まで実力派歌手として活躍した。2012年逝去。

「ふたりでドアをしめて……」(『また逢う日まで』)のフレーズとは正反対だが、洗練されたダイナミックな歌声で1970年代ポップスシーンのドアを開けたのは尾崎紀世彦だと思っている。それ以前にも声量自慢の本格歌手はいた。しかし、彼らの歌唱は演歌的、歌謡曲的なこぶしが効いていたりクラシカルに過ぎたりして1970年代と言う大変革の時代を切り開くサムシングを持ち合わせていなかったのだ。

尾崎は初期の『また逢う日まで』『さよならをもう一度』などで発揮した声量ばかりが注目されがちだが、それ以上に彼の魅力を形作っているのはソロデビューに至るまでに積んだハワイアン、カントリー&ウェスタン、ロック、スタンダードなどの豊富な音楽経験と持ち前のエモーショナルな声質。ピッチやリズムの正確さはもちろん、楽曲の魅力やジャンル性を的確につかんで時に優しく、時に激しく声をのせてゆく手法は現代のJ-POP歌唱法の元祖と言えるだろう。

『Love Me Tonight』(トム・ジョーンズ)、『太陽は燃えている』(エンゲルベルト・フンパーディンク)などの洋楽カバー、時代が彼に追いついた後のオリジナル曲『サマー・ラブ』(1987年)、1990年代に『THE夜もヒッパレ』(日本テレビ)で披露した『innocent world』(Mr.Children)、『LA・LA・LA LOVE SONG』(久保田利伸)など後進のカバーを聴けば尾崎紀世彦という歌手の凄みがよくわかってもらえると思う。

ただ一つ残念なことは……病に伏せる最晩年まで衰えるどころか円熟味を増し輝き続けた彼が2000年代以降、本格的な新曲リリースの機会に恵まれなかったこと。日本の音楽シーンのレベルの低さをよくあらわしている気がする。

 





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