戦略的に目指しはしたものの、
険しかった振付家・演出家への道
——亜門さんがミュージカルの演出家になられたのはなぜですか。
まずはハリウッドのミュージカル映画を呆れるほど観ました。母がレヴューガールだったことから影響を受けました。演出家になりたいと思ったのは洋書に載っている演出家たちの姿を見てからでしょうね。そこにはボブ・フォッシーやマイケル・ベネットらの写真が載っていて、その真剣な眼差しに面白そうだな…と。彼らは演出と振付、両方を手掛けていたんです。もともと踊るのは嫌いではなかったから、演出と振付けを両立できると考えて良いのだな、と。その後も、トミー・チューンなど演出家兼振付師が出てきたので、自分もできるかなと思ったんです。高校時代に引きこもっていた頃、ダンス、シーン、照明、セット全てが頭の中で盛り上がって、ひとり思い描いていましたが、実際にどう表現したら良いのかわからない。そんな頃、演出と振付両方をやっていけばいいのだと気づいたんですね。そのためにはまず出演者の気持ちをわからなければ、演出家としての指示ができない。演技については大学でも勉強していましたが、まずは現場を体験しなくては、頭だけでは駄目と思い、オーディションを受け、出演者となり、自分の出番がない時も、ずーっと稽古場の端から演出家の様子を勉強していました。それはそれは面白い体験でした。
——出演者として花を開かせようとは思わなかったのですか。
出演者になろうと思ったことはありません。自分が目指したのは、振付を任せてもらうために、まず出演者になりダンスリーダーになること。ダンスリーダーになったら、振付師になれる。その次には演出も任されるかもしれない。この流れを戦略的に目指したのが、僕のスタートでした。
僕の目の前にはこの階段しかないとスタートしたわけですが、なかなかそうは問屋がおろさない。ダンスリーダーを何度かしているうちに、竹邑類さんが振付をしていいよと言ってくださったことや、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』の初演で振付を担当させていただいたこと。その後、『シカゴ』で出演者としてダンスリーダーになった際のアメリカ人演出家は、ボブ・フォッシーと一緒に初演の『シカゴ』を作った方で、彼がボブはこのシーンで何を言っていたのか、このダンスにどういう意味があるのか、など話をしてくれて、まるで彼の助手のように働かせてもらったのは貴重な体験でした。
特にブロードウェイでは、僕が想像していたより遥かに丁寧に作っていたのです。動きひとつ、シーンひとつに大の大人たちがこれほどまでに時間をかけ、悩み、七転八倒しながら作るのだと知りました。まさにボブ・フォッシーが彼の人生を映画化した『ALL THAT JAZZ』そのものだったのです。こんなにギリギリまで勝負するのか。究極の作品を作るために真剣に生きている人たちの、断片を知ることになり、一段とショービジネスに感動し、この世界で生きる決意を新たにしたのです。
私生活でもいろいろなことが重なりました。母が舞台の初日に亡くなり、母が来るはずだった席に向かって、歌い、踊りながら、僕はここでしか生きられないと決心したこともあります。ところが演出家になろうと思って戦略的にやったつもりが、結局誰も僕を演出家にさせてくれなかった。自暴自棄になり、ロンドンに行って帰国後、『アイ・ガット・マーマン』をスタートさせたのです。
当時、日本では振付=演出家というスタイルが稀だったのは、実にショッキングなことでした。
——そうだったんですね。特にダンスが含まれているミュージカルは、演出家がいかに振付をわかっているかどうかが大きいと思っていました。以前、『スウィーニー・トッド』の時、「振付家・演出家は最高なんだよ!」と市村正親さんがおっしゃっていましたよね。
市村さんはダンサーとしても素晴らしい方で、フィジカルな感覚でものを見てくださる。そういう発想を持ってくださるのは、稀有な存在だと思います。