そこらじゅうにLOVEがあふれてる
フランスの超有名な哲学者でありゲイの大先輩でもあるミシェル・フーコー先生が『同性愛と生存の美学』という本を書いていて、20年くらい前に読んだときは難しくてピンとこなかったのですが、最近、「そういうことなのかな」…と、なんとなくわかってきた(ような気がする)部分があります。フーコー先生は「同性愛という問題の数々の展開が向かうのは、友情という問題なのです」と述べています。これまでの男女間の性関係には支配/被支配という権力関係が介在していたことを指摘したうえで「性行為そのものよりも、同性愛的な性の様式の方が遙かに(権力者を)当惑させる」「個々の人間が愛し合い始めること、それこそが問題なのです」と。つまり、人々が(性行為があろうとなかろうと)打算や上下関係なしの純粋な愛(「友情」)の結びつきを広げていくことに、ものすごく意味があるというのです。グッときませんか?
もちろんノンケ男性の間にも強い友情はありますが(そちらの方が絆が強いくらいだと思います)、ここで言う「友情」とは、性的な関係(の可能性)をも含み、また、支配/被支配という権力関係やミソジニー(男尊女卑)やホモフォビア(同性愛嫌悪)とは縁遠い、いわば人間的な愛情とでも言うべき概念です。
「ゲイピープルはラブリー&ピースフル」と何度か書いてきましたが、それこそがフーコー先生の言う「友情」の具現化、ゲイらしい「生の様式」なんだと思い当たりました。以前、ゲイクルーズに乗ったとき、洋上の豪華客船のデッキで夕暮れ時、懐かしのゲイアンセムが次々に流れるパーティが催され、世界中から集まってきたゲイたちが思い思いの自分らしい格好(ゴージャスだったりセクシーだったり)で、最高にハッピーな笑顔でダンスし、そこら中でハグしたりキスしたり(そこで盛り上がった人たちはお部屋に戻って続きをしたり)という光景に涙が出るほど感動し、日本のみんなにもいつかこの光景を見てほしいなあと思いました。
なのですが、気づけば、東京はもはやそういう地点にたどり着きつつある!というのが、今のゴトウの実感です。素敵なパーティは、前の章で書いた通り、東京にもいくらでもあるのですが、ここでは「そこら中でハグしたり~」の部分について掘り下げてみますね。
そもそも日本人ってシャイ(人見知り)だったり奥手だったり身持ちが固かったりする人が多かったことに加え、「二丁目に行ってる人はNG」「オネエお断り」的な拒絶反応や、「褌バーって変態」「SMやる人って危険」みたいな偏見なんかも昔はよく見聞きしました。マジメ系とか飲み屋系の人はエッチな遊び場には行かない(ゲイのソーシャルネットワークとセクシャルネットワークは重ならない)というのが鉄則だったりもしました。いろんな壁や断絶があったのです。
でも最近は、いろんな意味で「壁」がなくなってきて、流動化や自由化が進み、いい具合にほぐれてきたなぁって思います。その気になればいくらでも出会い(縁)があるし、「え?こんなところで出会ったの?」みたいな話もいっぱいあるし、そこらじゅうにLOVE(「友情」)があふれているのです。
たぶんここ数年で、(東京の)ゲイピープルのライフスタイルはよりいっそう、自由で風通しのよい感じに変化してきました。「清く正しく」みたいな旧態依然とした性愛規範よりも、ゲイならではの(欧米に近い)オープンなありようが広まりつつあると思います。
クラブパーティなんかでも、ハグしたりチューしたりじゃれあったり、みたいな光景も当たり前になってきましたし、ちょっとセクシーな感じのイベントも大流行りです(もちろん、Twitterやアプリも相変わらず盛んです)。そういう場所で出会った人どうしが(○○系の人とかいう先入観なしに)仲良くなって、いっしょにご飯を食べに行ったり、ミュージカルを観に行ったり、同性婚について語ったり(「友情」を育んだり)、ロマンスが生まれたり、ということもフツーになってきました。
この変化の根底には、イマドキの世代のあっけらかんとした自己肯定感もあるでしょうし、人生一度きりなんだからキレイぶっててもしょうがない、楽しくハッピーに生きよう、という感覚もあるかと思います。(震災後、「人間、いつどうなるかわからないんだから、精一杯今を生きよう」「将来になかなか希望を見出せないけど、せめて人生を楽しもう」「快楽上等!」という思いを強くした人も多かったのではないでしょうか)
そういう時代にじゃあ、どんな人が幸せになれるのでしょうか? 見た目ももちろん大事ですが、それ以上に(「友情」を育む資質としての)オープンマインドとかポジティブなメンタリティが重要になってくると思います。もっと言うと、素直で明るくて、自信に裏打ちされた内面的な魅力があって、人を楽しませる気遣いができる、そういう人に「ロマンスの神様」が降りてくる気がします。