ふたりの皇帝による聖誕教会の建設

聖誕教会の主祭壇

イエスを祀る聖誕教会の主祭壇。床は十字軍時代のもので、その下にコンスタンティヌス時代のベースがある

ローマ帝国末期まで、キリスト教は弾圧の対象だった。

聖誕教会のクリアストーリー

ギリシア・コリント式の柱と素朴なモザイク(石や貝殻などの小片を貼り合わせた絵)が残る聖誕教会のビザンツ様式のクリアストーリー

たとえば12使途のひとりであるペトロは弾圧の本拠地・ローマで布教するが、最後は皇帝ネロの迫害を受けて逆さ十字にかけられ殉教してしまう。後日ここに建てられたのがカトリックの総本山、サン・ピエトロ大聖堂だ(世界遺産「バチカン市国」構成資産)。

しかし、4世紀にコンスタンティヌスが皇帝位に即位するとこの流れが変わる。

313年、キリスト教の拡大を防げなくなったコンスタンティヌスはミラノ勅令でついにキリスト教を公認。この前の皇帝ディオクレティアヌスは自ら神を称してキリスト教を禁止していたから大きな転換だ。

 

伝説によると、前年に戦地で苦戦を強いられていたコンスタンティヌスだったが、夢の中で光り輝く十字架を見ると次々と勝利を収めたという。これによってキリスト教を認めたともいわれる。

326年、コンスタンティヌスはイエスが生まれたとされるベツレヘムの洞窟跡に教会を設立する。これが聖誕教会の最初の姿だ。当時の姿は床にわずかに残されており、モザイクの装飾を見ることができる。ちなみに、先のサン・ピエトロ大聖堂の場所に最初の教会堂を造ったもの彼で、死に際して自ら洗礼を受け、キリスト教に改宗したという。

コンスタンティヌスの死後、ローマ帝国は380年にキリスト教を国教化し、392年にはキリスト教以外の宗教を禁止。こうしてキリスト教はヨーロッパ中に広がることになる。

14芒星と祭壇

18世紀にこの生誕の地に14芒星と祭壇が備えられた

聖誕教会は6世紀に焼失してしまうが、東ローマ皇帝・ユスティニアヌスが再建する。これが現在に伝わる聖誕教会のベースで、遺跡となってしまった教会跡や、まったく新たに立て直された教会を除けば、この聖誕教会は世界最古の教会となる。

7世紀にベツレヘムはウマイヤ朝(アラブ帝国)、アッバース朝(イスラム帝国)といったイスラム勢力に支配されてしまう。イエスはイスラム教徒にとっても預言者であり、またモザイクに中東の賢者である東方三博士が描かれていたことから破壊を免れたといわれる。

 

11~12世紀、十字軍がベツレヘムを占領すると、聖誕教会の周囲に堅固な城壁を築いて要塞化する。いまに見る城壁のような外壁はこの時代に造られたものだ。

ベツレヘムを巡るパレスチナとイスラエルの攻防

聖誕教会の身廊

聖誕教会の内観。長方形の身廊(中心部)、その横に側廊(両サイドの柱の外)、奥に半円のアプス(内陣の聖域)を備えたバシリカで、初期キリスト教会の特徴を見事に伝えている

実はこの世界遺産、領有を巡っても、世界遺産登録を巡ってもさまざまな波乱があった。まずはその領有権から解説してみよう。

聖誕教会のモザイク

ユスティニアヌス時代から伝えられるモザイク

ベツレヘムはエルサレムの近くにあり、エルサレムはユダヤ教最大の聖地。同時にキリスト教とイスラム教にとっても聖地だ。長らくイスラム教徒がこの地を支配していたが、20世紀にイギリスが植民地化してしまう。

この辺りに住んでいたアラブ人=パレスチナ人たちによる独立運動が盛んになるが、第二次世界大戦でヨーロッパに住んでいたユダヤ人がナチスによる迫害を受けると、ユダヤ人国家建設運動=シオニズムは頂点に達し、人々はかつて神がユダヤ人の土地として約束を交わし、ユダヤ人国家が存在した中東の地に次々と帰還する。

 

聖誕教会の側廊

聖誕教会の側廊

こうしてパレスチナ人、ユダヤ人の間で国家創設の争いが起こるわけだが、国連(国際連合)はパレスチナ人地域、ユダヤ人地域、国連統治地域の三分割案を提起する。これに対してパレスチナ人は、突然現れたユダヤ人が多くの土地を奪い、旧エルサレムやベツレヘムといった聖地さえ自分たちの土地に入れられないことに対して反発。内戦が勃発する。

1948年にユダヤ人がイスラエルの建国を発表すると、周辺のシリア、レバノン、ヨルダン、エジプト、イラクが宣戦布告(第一次中東戦争)。ベツレヘムはヨルダンが占領するが、1967年の第三次中東戦争でイスラエルに奪われてしまう。

 

1995年、イスラエルはパレスチナ自治政府との合意に基づいてベツレヘムを引き渡すが、周辺には分離壁に囲われたイスラエルの土地があり、2000年代に入ってもしばしば両国の間で争いが勃発している。