ミュージカル/ミュージカル・スペシャルインタビュー

気になる新星インタビューvol.11 すみれ(2ページ目)

ハワイで育ち、2011年に本格的に芸能界デビュー。テレビ番組やCMにひっぱりだこのいっぽうで、すみれさんは新進ミュージカル俳優としても注目を集めています。一昨年は『二都物語』『エニシング・ゴーズ』に立て続けに出演。15年のスタートを飾る新作『ボンベイドリームス』でも、ヒロイン役を演じます。米国の大学演劇科のハードな授業など、すみれさんならではの体験談をご紹介します!*観劇レポートを追記しました!*

松島 まり乃

執筆者:松島 まり乃

ミュージカルガイド

ハワイのコミュニティ・シアターで
演劇の楽しさに目覚める

『ボンベイドリームス』

『ボンベイドリームス』

――すみれさんは高校までハワイで育ったのですよね。ハワイの演劇事情はどんな感じでしょうか?

「劇場はあまりないんです。ダイヤモンドヘッド・シアターですとか、いくつかはありますが、規模は小さいですね。でもそういうところで、コミュニティ・シアターという活動がありまして、市民が集まってコスチュームも自分たちで作ったりしながら、作品を上演しているんです。アメリカ本土でも盛んで、ブロードウェイにはコミュニティ・シアター出身の俳優さんもいるんですよ。私も子供のころからそういうシアターを観に行ったり、自分も参加させていただいたりしていました」

――まずは16歳の時、モデルとしてデビューされたのですね。

「計画はしていませんでした。ママと一緒に何かの撮影に行ったら、カメラマンさんに“すみれちゃん、ちょっとメイクして撮ってみようよ”と言われたのがきっかけで、ご縁があって始めたんです。

高校時代に踊った『くるみ割り人形』。写真提供:すみれ

高校時代に踊った『くるみ割り人形』。写真提供:すみれ

女優というお仕事を意識したのはもう少し早くて、中一の時に初めてミュージカルを観て、とても楽しかったんです。歌うことは大好きだったし、ダンスも子供のころから習っていたので、女優さんになるという道もあるなと思いまして。コミュニティ・シアターでお芝居を始めて、大学では演劇科に行って勉強することにしたんです

――進学先はアメリカ本土のカーネギーメロン大学。こちらを選ばれた理由は?

「実際はNYUですとかジュリアードですとか、いろいろオーディションして、もちろん受かったところも受からなかったところもありました。受かったところのなかでどこに行こうかなとなった時に、ニューヨークやロサンゼルスのような都会だと、遊びに行ったりオーディションに行ったりという機会も多いので、もしかしたら勉強に集中できないかな、と思いました。高校の先輩で、ニューヨークの学校に入った方がいらっしゃったんですが、オーディションである作品のワークショップに受かったのだけど、その作品自体が失敗になってしまって(時間を)損してしまった話を訊いたりしていたんです。

カーネギーメロンはピッツバーグという、工場ばかりのスチールタウンにある大学で、他に何もないところなんですけど、だからこそ、都会で脇道にそれてしまうより、勉強に集中できていいのかなと思ったんです。

入学してみると、実際とてもハードでした。朝の7時半から夜中の4時くらいまで、授業、裏のお仕事の勉強、リハーサル、宿題など、毎日やることがぎっしり。ほとんど眠れない時もあったけど、その中で皆が情熱を持ちながらお芝居をしたりレッスンをしたり、本当にお芝居が大好きでという人たちばかりで、私としてもすごくいろんな勉強にもなったし、幸せでした」

――アメリカの演劇学校というと、『コーラスライン』のディアナのエピソードを思い出してしまいますが、「ソリになってください」「アイスクリームになって」的なメソッドの授業、ありましたか?

「そういうのもありましたし、もちろん歴史とかの講義もあります。でも、何グループかに分かれて、自分たちで1週間かけて作品を作ったりといった、自由な課題もありました。一人で複数の作品に参加することもできるんですよ。『フェイム』『コーラスライン』で観たような光景もあったけど、それよりもっと面白い部分もありました。

でも、その学校ではアジア人は私だけで…はじめはもう一人、中国人がいたのだけど1年でいなくなってしまって…やはりハワイのような、アジア人も多くていろんなところから人が集まっている場所とは違って、そこは白人かアフリカ系しかいないようなところで差別のようなものもあり、ちょっと孤独感があったり、3.11(東日本大震災)もありまして、心境の変化があったんです。2年生まで終えたところで、自分の中でこの大学を十分経験できたと思って、いったんハワイに帰郷しました。そこで初心に戻ってから日本に渡ったんです」

――ブロードウェイに挑戦しようとは思わなかったのですか?

「もちろん、いつかは行ってみたいです。私の夢です。でも、大学に行っていたときに、私の国籍は日本なのに、考えてみれば言葉もほとんど話せないし、文化も礼儀作法も分かっていない、と思ったんです。ここで挑戦しないと、と思って帰国しました」

――はじめはほとんど言葉が話せなかったとなると、当初は大変だったと思いますが、どうやって乗り越えたのですか?

「最初は凄く落ち込んだり、自分に“バカ”と言ったりしていた時期もあったんですが、やはりママや友達、共演者、スタッフさん、事務所の方々など、周りの方々の助けがありました。精神的に追い詰められたときにはハワイや、ママの故郷の京都に行ってリラックスするようにもしていました。でもやっぱり勉強が必要だと思ったので、自分で調べたり、誰かから新しい単語を聞くとノートするようにしていました。

あとは、字幕が勉強になりました。映画を観て英語を聞きながら字幕を見る、逆に日本語の映画を観て英語の字幕を見る、というのがすごく役立ちましたね。音楽も、日本の曲は歌詞の中に“一期一会”のような四字熟語やメタファーが出てきて日本語の勉強になりました」

*次ページでは昨年出演した話題作の『二都物語』『エニシング・ゴーズ』、そして今後のヴィジョンをうかがいました!
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