沢田色の強まるタイガース
加橋の穴を埋めるため岸部シローが加入した新生ザ・タイガースは、次第に沢田をメインにした売り出し方にシフトしてゆく。グループサウンズ・ブーム自体も終焉を迎えつつあった。象徴的に思えるのは1969年7月にリリースされたシングル『嘆き』。
この曲ではこれまで重視されていたメンバーのコーラスがなく、演奏もおそらく大半がスタジオミュージシャンによるもの(多忙ゆえにスタジオミュージシャンを使ったのはこれが最初ではないが)。
曲調も布施明のようなソロ歌手が歌っていてもおかしくないような感じで“別にバンド名義でやる必要のない音楽”と言える。
これ以降もコーラスワークを遺憾なく発揮したシングル『スマイル・フォー・ミー』(1969年7月)、メンバー自ら作曲したシングル『素晴しい旅行』(1970年7月)などがありバンドとしての実体がなくなったわけではないのだが、渡辺プロの戦略転換はメンバー間にすきま風を吹かせていった。
ファースト・ソロ・アルバム『JULIE』
沢田研二ソロ名義でのファースト・アルバムもこの時期にリリースされた。その名も『JULIE』(1969年12月)。
まだシンガーとして発展途上な不安げな歌声と、中庸な美少年然とした歌詞とメロディーの織り成すハーモニーはただただ甘ったるい。
しかし「それがこの時期の魅力」というファンは多いだろう。