日本近代音楽シーンに数々の金字塔をうちたてた巨人

2013年、ザ・タイガースの再結成、ドームを含めた全国ツアーを成功させ、今あらためて大きな存在感を見せている沢田研二。言うまでもなく1960年代以降のポップス、歌謡曲、和製ロックに多大な影響を与え続けてきた日本近代音楽の巨人である。

彼のリリースしたシングル、アルバムがオリコン20位以内にランクイン、もしくは公然たるヒット(※オリコンの発足は1968年)となっていた時期は1967年から1985年までの18年間。

その間、グループサウンズブームの頂点を極め、フランスを中心としたヨーロッパ諸国に進出し、ピンクレディーらとともにテレビ歌謡曲の黄金期を創出し、ロックバンドやサブカルチャーをフィーチャーしたステージングを日本に定着させるなど、功績は多岐にわたっている。

当時を知る読者には懐かしく再確認していただけるよう、若い読者には興味を持って新らしい発見としていただけるよう『沢田研二入門』と題して、いくつかの時期にわけて彼の作品や音楽的事績をご紹介していきたい。

第二弾はグループサウンズ期の半ば頃(1968年~1969年)に関して。

※沢田研二入門(1)1965年~1968年はこちら

加橋かつみとの対立

1967年から1968年にかけて数々のヒット曲を放ち、グループサウンズ・ブーム自体をアイドル的なものに変質させるほどの存在感を放ったザ・タイガースだが、人気の高まりとともにバンド内に軋轢が生じるようになった。

メインボーカルを担当する沢田研二と加橋かつみの対立である。
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よく言われるのが「芸能人として事務所から与えられた仕事をまじめにこなそうとする沢田研二」と「アーティスト気質でバンドが本来目指していた姿から離れていくのを嫌った加橋かつみ」という構図だが、人間関係とは一つの観点から説明のつくものではない。

沢田からしてみれば、ザ・タイガース最大のヒット曲『花の首飾り』(1968年3月)が加橋のリードボーカルによるもの(当時は加橋のほうが歌唱力では優れており、ミディアムナンバーでの起用が多かった)だったことに複雑な気持ちがあったかもしれないし、加橋からすれば沢田ばかりがもてはやされることに対するやりきれない気持ちがあったかもしれない。

またスターゆえの殺人的なスケジュールによるストレスもかなりのものだっただろう。

『ヒューマン・ルネッサンス』のいびつな輝き

この対立は音楽面ではアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』(1968年11月)のいびつな輝きにつながった。
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『ヒューマン・ルネッサンス』は"平和への願い"という一貫したテーマを保ちつつも、サウンド面では従来のクラシカルなすぎやまこういちの曲があり、新進気鋭でサイケデリックの要素を盛り込んだ村井邦彦の曲があり、そしてメンバーの加橋かつみの『730日目の朝』や後にシングルカットもされた森本太郎の『青い鳥』もある。

さまざまなメンバーがリードボーカルをとり、誰か一人の色が突出することはないのだが全体として無難にならず格調高く、それでいて実験的……日本のポピュラー・ミュージック史上では初の"コンセプト・アルバム"に仕上がったのだ。人気や売り上げ以外にもザ・タイガースがグループサウンズの冠たるが理由がここにある。

そして、この名アルバムがリリースされてほどない1969年3月、結果的に加橋はザ・タイガースを脱退した。