ジョニー大倉に対する誤解

2013年6月に肺がんで余命2週間の宣告をうけながらも壮絶な抗がん剤治療に耐え、4ヶ月を経た今でもなお生き延び、かつ快方に向かっていると豪語するジョニー大倉。

1970年代、キャロルのギターボーカルとして一世風靡し、日本のロックンロールシーンの礎を作った"伝説のミュージシャン"だ。

しかし後の世代にとっては元相方の矢沢永吉との確執やビルから飛び降りた不死身伝説、俳優のイメージが強く、ミュージシャンとしての面はあまり注目されていない。

僕にとっては、現在のジョニー大倉の認知のされ方は不遇の一言に尽きる。
一介のスキャンダルタレントとして片付けられるには、日本音楽史にジョニー大倉が残した足跡はあまりに大きすぎるのだ。

今回は日ごろメディアで語られることの少ないジョニー大倉の功績、魅力にスポットをあて、今後なされるであろう再評価のさきがけになりたいと思う。

日本語×英語ミックス歌詞の第一人者として

キャロルがデビューした1972年頃は、日本におけるロックの地位はまだまだ確立されておらず、内田裕也と松本隆(当時『はっぴいえんど』)の間で"日本語はロックの歌詞に通用するかどうか"という論争があったほど。

そんな中、キャロルが発表した「君がいなけりゃ Baby I'm blue,No……」(『ファンキー・モンキー・ベイビー』)、「愛したいけど She belongs to him」(『彼女は彼のもの』)などの、文章単位で日本語と英語が入り乱れる歌詞、歌唱法はあまりに大きなインパクトだった。

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キャロル


1960年代の漣健児らによるカバーポップス、和製ポップスの歌詞にも同様の傾向は見られたが、それを完全にオリジナル作品として、よりスタイリッシュに再確立したのがキャロルの作詞を担当していたジョニー大倉なのだ。

直接的な影響はわからないが、彼こそが後進のゴダイゴ、サザンオールスターズ、佐野元春、BOØWY、B'zなどが受け入れられる土壌を作った第一人者であることは間違いない。

和製ロックンロールスタイル(革ジャン×リーゼント)の父として

ロックンロールと言えばリーゼントに革ジャンというファッションを思い浮かべる方は多いと思うが、このイメージを定着させたのは他でもないジョニー大倉。
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リーゼントに革ジャン姿のジョニー大倉


矢沢永吉が中心になり結成したキャロルだが、他メンバーの反対を押し切ってバンドのコンセプトとしてリーゼントや革ジャンなどのロッカーズスタイルを提唱したのはジョニー大倉だったのだ。

これはメジャーデビュー前のビートルズにヒントを得たものだったが、当時のファンション界や不良文化のトレンドにうまく乗っかり、ひいてはキャロルを社会風俗的に注目させるメディアミックスのもっとも大きな材料になった。

そして、キャロルのスタイルがクールス、横浜銀蝿、ギターウルフなど後進のロックンロールバンドに引き継がれていく中で、日本ではロックンロール=革ジャン×リーゼントというイメージが確立されていった。

ジョニー大倉のアイデアが無ければおかっぱや長髪がロックンロールの代名詞になっていたかもしれないし、もしかするとロックンロール自体が商業的にもっとマイナーなジャンルに終わっていたかもしれない。

ちなみにキャロルと同時期にデビューしたダウン・タウン・ブギウギ・バンドもリーゼントや不良ファッションのイメージが強いが、1974年末に『スモーキン・ブギ』をリリースするまではフォーク野郎のようなファッションだった。完全な後追いである。
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リーゼントでもツナギでもない初期のダウン・タウン・ブギウギ・バンド


生粋のロックンロール・アーティストとして

ジョニー大倉のアーティストとしての特徴は、キャロル、ソロ活動を通して一貫してロックンロールに徹しているところである。

現代でこそヒップホップ、レゲエ、テクノとジャンル専門のミュージシャンでもそれなりに活動していける素地があるが、1970年代、1980年代までは流行によるジャンルの盛衰が極端で、商業ミュージシャンにとって音楽性は"乗り換えていくもの"だったのだ。

矢沢永吉の楽曲はソロ転向後ほどなくしてポップス色、歌謡色が強くなっていった。あの内田裕也ですらカバーポップス、サーフ、ニューロックとロックの範疇ではあるが、時期によってさまざまな音楽に手を出している。
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1970年前後に内田裕也が在籍していたフラワーズ


その中でロックンロールと浮沈を共にしたジョニー大倉の姿勢は実に潔い。

ソロ初期のアルバム『JOHNNY COOL』(1976年)、『JOHNNY WILD』(1976年)、『ポップン・ロール・コレクション』(1977年)は、個々の評価はまた別の機会に譲るが、それぞれ日本のロックンロール史を語る上で外しがたい名作だし、2000年代以降も上原裕や小松竜吉、クラレンス・クレモンズなど気鋭のミュージシャンを招いた秀逸な作品が多く、現在進行形で"ロックンローラー"ジョニー大倉としての新境地を見せてくれている。
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アルバム『抱いて抱いて抱いて!』(2010年)


第一級の芸能人として

今でこそ活動規模やセールス面で大きな差のついてしまったジョニー大倉と矢沢永吉だが、1975年にキャロルが解散してからの数年間は、両者とも積極的なプロモーションを繰り広げており、どちらが勝っているか一概には言いがたかった。

1977年に日本人ソロ・ロック歌手として初めて武道館コンサートを開催したのが矢沢永吉、5日違いで2番目がジョニー大倉というエピソードからも両者の拮抗ぐあいがうかがえる。

まだこれと言ったヒット曲がないという状況も共通していたが、ジョニー大倉のほうが映画、ドラマに出演したり山口百恵のアルバム『GOLDEN FLIGHT(1977年)』に楽曲提供するなど、一歩先んじていたように考えられるくらいだ。

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山口百恵のアルバム『GOLDEN FLIGHT』


この均衡は1978年に矢沢永吉が『時間よ止まれ』を大ヒットさせたことで崩れてしまうのだが、その後もジョニー大倉は俳優としての露出が増加。1981年には『遠雷』で日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞し、『戦場のメリークリスマス』(1983年)、『チ・ン・ピ・ラ』(1984年)などの大作、話題作に出演してインパクトに残る演技を見せている。

矢沢永吉の大スターぶりには及ばないかもしれないが、ジョニー大倉もまた独自の才能をもった第一級の芸能人であることに変わりないということだ。

ジョニー大倉の再評価を!

いかがだっただろうか。

僕はジョニー大倉を、日本のポピュラー音楽を構築してきたキーパーソン達の中で、最も過小評価されているうちの一人だと思っている。

確かに身の処し方が器用でないところはあっただろう。しかしそれは個人としての問題であって、ミュージシャン、アーティストとしての才能、功績とはなんら関係のないところである。

キャロルが他の"一ジャンルを確立したバンド"……たとえばザ・スパイダース、はっぴいえんど、YMOなどと同様に評価され得るのであれば、その創作の核になったジョニー大倉もまたムッシュかまやつ、細野晴臣、松本隆、坂本龍一などと同様に評価されるべきであるというのが僕の考えだ。

この記事が一人でも多くのリスナーに届き、今後の再評価の一助となることを願っている。


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