「ベルリンの壁」の建設から崩壊まで分かりやすく解説
ベルリンには「壁」まつわるスポットがいくつも残されています。写真はアーティストが壁画を描いた「イーストサイドギャラリー」
2019年は壁崩壊から30周年を記念して様々なイベントが開催されます。この機会にぜひベルリンを訪れて壁をたどり、当時に思いを馳せてみてください。
■ベルリン観光局の壁崩壊30周年記念ページ
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ベルリンの壁はなぜつくられたのか
第二次世界大戦後、連合軍(米・英・仏・ソ連)によって西ドイツと東ドイツとに分割された敗戦国ドイツ。東ドイツはソ連が統治しましたが、そのなかにあったベルリンはさらに分割され、西ベルリンを米・英・仏が、東ベルリンをソ連が管理することになりました。つまり、東ドイツ国内にありながらも西ベルリンだけは西ドイツに属するという、まさに陸の孤島のような状態になったのです。資本主義の西ドイツと、ソ連社会主義の東ドイツの経済格差は徐々に大きくなっていきました。東ドイツの経済が悪化していくのに対して、西ベルリンが属する西ドイツの経済は成長を続け、市民の生活も格段に豊か。当初は東西ベルリンの行き来は自由だったので、自由で良い暮らしを求め東ベルリンから西ベルリンへ亡命する人は増える一方でした。 国家存続の危機を感じた東ドイツは、東の人々が西に逃げられないように壁を作ろうと考えて実行。1961年8月13日、東西ベルリンの境界線が封鎖され、西ベルリンをぐるりと取り囲む壁が一夜にして作られました。信じがたいことですが、ある日突然出現した「壁」によって、家族や友人と二度と会えなくなってしまった人たちがたくさんいたのです。
ドイツの東西分裂、壁の時代
壁ができた1961年当時の写真(Bernauer通りの野外展示場より) 兵士のなかにも西へ逃げる人がいました
※ベルリンの壁で犠牲になった人々については現在も調査が続けられています。
ベルリンは東西冷戦の中心地となり、その象徴であるベルリンの壁がなくなる日は永遠に来ないものと思われていました。
自由化デモ、平和運動の広がり
80年代後半になるとデモが拡大(チェックポイントチャーリー付近のパネル写真より)
1989年にハンガリーとオーストリアの国境が解放されると、東ドイツからチェコスロバキア、ハンガリーを経由して西ドイツへ渡る人が増加。同時に東ドイツでは自由を求めるデモへの参加者が増え、どんどん拡大し広がっていきました。なかでもライプツィヒの聖ニコライ教会で1982年から毎週月曜日に行われていた平和運動は有名で、壁崩壊への導火線となったといわれています。
勘違いによるベルリンの壁の崩壊→東西ドイツ再統一
1989年11月9日、対応を迫られた東ドイツ政府は出国の規制を緩和する改正案を決議。その後の記者会見でギュンター・シャボウスキー政府報道官は、いつから発効するのかとの質問に「ただちに」と回答してしまいます。じつはこれは混乱のなかでおきた彼の勘違いで、本来なら発表と発令は翌日行われるはずでした。シャボウスキーによる世紀のうっかり発言(後に「歴史上最もすばらしい勘違い」と称されます)をきっかけに「今すぐ壁を越えて自由に出国できる」との報道が広がり、東ベルリン市民が大挙して壁に押し寄せ国境が解放されることとなりました。
こうして、28年間存在し続けた「越えられないもの、変えられないもの」の象徴だった巨大な壁がついに崩壊したのでした。
そして一年後の1990年、10月3日に東西ドイツの再統一が実現。国民による非暴力革命が成し遂げられたのです。
ベルリンの壁の跡
かつての検問所、チェック・ポイント・チャーリー。隣の壁博物館では壁にまつわる悲劇や逃亡の様子を知ることができます
崩壊30年を迎えてますます注目を集めるベルリンの壁。無料で公開されているところもたくさんありますのでぜひ訪れてみてください。
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