「ベルリンの壁」を分かりやすく説明します

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ベルリンには「壁」まつわるスポットがいくつも残されています。写真はアーティストが壁画を描いた「イーストサイドギャラリー」

町が東西に分裂されたうえに壁が建設されるという、波乱万丈の歴史を持つベルリン。ベルリンの壁をたどることは、この街の歴史、ドイツの歴史をたどることにもつながります。壁が崩壊して25年を経て、ベルリン観光のハイライトとしてベルリンの壁めぐりはますます人気を集めています。ベルリンの壁とはいったい何だったのか……ここでもう一度おさらいしておきましょう。

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ベルリンの壁はなぜつくられたのか

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1961年の西ベルリン側。壁ができる直前のブランデンブルク門付近 (写真はポストカードより)

第二次世界大戦後、連合軍(米・英・仏・ソ連)によって西ドイツと東ドイツとに分断された敗戦国ドイツ。東ドイツはソ連が占領しましたが、そのなかにあったベルリンはさらに分割され、西ベルリンを米・英・仏が、東ベルリンをソ連が統治することになりました。つまり、東ドイツ国内にありながらも西ベルリンだけは西ドイツに属するという、まさに陸の孤島のような状態になったのです。

資本主義の西ドイツと、ソ連社会主義の東ドイツの経済格差は徐々に大きくなっていきました。東ドイツの経済が悪化していくのに対して、西ドイツと西ベルリンの経済は成長を続け、市民の生活も格段に豊か。当初、東西ベルリンの行き来は自由だったので、自由で良い暮らしを求めて、東ベルリンから西ベルリンへ亡命する人は増える一方でした。
1961年検問所の様子

1961年検問所の様子

国家存続の危機を感じた東ドイツは、東の人々が西に逃げられないように壁を作ろうと考えて実行。1961年8月13日、東西ベルリンの境界線が封鎖され、西ベルリンをぐるりと取り囲む壁が一夜にして作られました。信じがたいことですが、ある日突然出現した「壁」によって、家族や友人と二度と会えなくなってしまった人たちがたくさんいたのです。

 


東西分裂、壁の時代

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壁ができた1961年当時の写真(Bernauer通りの野外展示場より) 兵士のなかにも西へ逃げる人がいました

東ドイツから切り離されて、文字通り「陸の孤島」となった西ベルリンですが、事実上、この壁は東ベルリン市民を東側に閉じ込めるためのもの。有刺鉄線が張り巡らされた3mの高さの壁には厳重な警備が置かれ、東ベルリン市民は近づくことも許されませんでした。それでも命がけで脱出を試みた人たちもいて、逃亡中に亡くなった人は136人(※)に及び、その中には近くで遊んでいた子ども2人も含まれるそうです。

※ベルリンの壁で犠牲になった人々については、現在も調査が続けられています。

ベルリンは東西冷戦の中心地となり、その象徴であるベルリンの壁がなくなる日は、永遠に来ないものと思われていました。この非情なベルリンの壁がいかにして崩壊したのか? 次のページで見ていきましょう。