将棋の2つの顔

将棋には2つの顔がある。一つは「文化」としての顔である。棋道に基づいた礼儀作法を中心にした様式美を尊ぶ顔である。もう一つは「勝負」としての顔である。知力と心力を尽くして戦う阿修羅のごとき顔である。言わば、文化という「凪」と勝負という「嵐」が同時進行する大海こそ将棋なのである。
 

将棋観戦の難しさ

私たちはエンターテイメントとしてプロ棋士の将棋を観る。これは非常に難しいことである。将棋を観戦するということは凪の中に嵐を読み取るという行為に他ならないからだ。しかも、その嵐は棋士の頭と心の中にある。希代のプロレスラー・アントニオ猪木はこう語った。

「プロレスほど世界で支持されているスポーツはない。どんなスポーツよりも観客にわかりやすいからだ」

プロレスは嵐そのものをレスラーの一挙手一投足、そして表情で観客に提示する。猪木は加える。

「ルールなど知らなくても、殴られる、蹴られる痛みは誰でも知っているからね。私は相手だけでなく観客を手の平にのせることを考えて勝負をしているんだ」

だが、将棋はわかりにくい。将棋の対局中継には聞き手と解説者が付く。これはプロレスと同様だ。しかし、決定的に違うのは、プロレスの画面は選手が中心だが、将棋の場合は解説者が長時間の画面露出をすることだ。解説抜きの将棋中継はあり得ない。そして、彼らは静止画像に過ぎない局面という「凪」から、動画である「嵐」を読み解くために助力をしてくれる。

例えば、今、先手が放った「銀」は何なのか?この「銀」が「ドロップキック」であり、その先に「成銀」という「卍固め」が控えているということを教示してくれるのだ。しかし、それでも難しい。プロレスならば「ドロップキック」が当たらなければ失敗だと、その瞬間に素人にもわかる。だが、盤面に置いた「銀」が失敗であるかどうかは、きわめて難解であり、プロにさえ不明な場合がある。ルールを知っていてもわからない世界が、そこにはあるのだ。

将棋と漫画表現

過去、将棋に関する漫画は、たくさん生まれてきた。「歩武の駒」「月下の棋士」「3月のライオン」などご存じの方も多いだろう。漫画は子ども達も読む。将棋を知らない大人だって目にするだろう。だから、将棋の持つハードルを低くしなければ、読んでもらえない。観客論で言えば、ルールを知らなくても楽しめるプロレスとはまったく違うのだ。
 

「進撃の巨人」に「将棋」が潜んでいたのか

「進撃の巨人」で脚光を浴びる諫山創。彼が原作し皆川亮二が作画した将棋漫画「the Killing Pawn」。媒体は週刊少年マガジンである。私は過去記事で「進撃の巨人」には「将棋」が潜んでいると書いた。そして、諫山が将棋ファンであると述べた。その主張が正しかったかどうか、それは「the Killing Pawn」に将棋愛があるかどうかでわかるとも書いた。

そして、私は書店に並んだ。もちろん少年マガジン購入のためである。発売日にマガジンを求めるなど、巨人の星、あしたのジョー以来である。半世紀ほどの時を経て、並んだのである。そして読んだ。もちろん真っ先にである。

「the Killing Pawn」へのめまい

正直に書こう。あっけにとられた。これが将棋漫画なのか?たしかに舞台は町の将棋クラブであり、出てくる人物も将棋漫画らしい様相である。プロ棋士も出てくるし、彼らは盤を囲み対局をしている。皆川の作画力は素晴らしく、「凪」の部分はしっかりと細かい部分まで押さえられていた。だが勝敗を決するものは将棋ではない。なんと『ドラゴンボール』のカメハメ波を彷彿させる衝撃波なのだ。

出てくる対局用語はただ一つ。「二歩」だけだ。繰り返す。これを将棋漫画と呼んで良いものか。私は軽いめまいさえ覚えた。この作品に諫山の将棋愛が感じられなかったのだ。だが、同時にふとある人物の名が頭をかすめた。

頭をかすめたホーキング

それはスティーヴン・ウィリアム・ホーキングである。あの「ホーキング宇宙を語る」を著した天才理論物理学者・ホーキング博士である。

彼はこんなことを語った。

「本の中に方程式を書けば書くだけ販売部数が減るそうです。だから、できるだけ方程式を載せないようにしました」。

だからだろう。「ホーキング宇宙を語る」は大衆の圧倒的な支持を受け、世界を股にかけるミリオンセラーとなった。物理学関連書籍の革命とも言える著作となったのだ。

もしや「the Killing Pawn」も将棋漫画の革命なのか?革命を大衆へと広げるため、棋譜に代表される一般には理解しにくい戦いの部分を、つまりホーキングの言う「方程式」を消去することに取り組んだのではないか。ホーキングが「e=mc2」とたった一つの方程式だけを用いたように、諫山も「二歩」というただ一つの表現に抑えたのではないか。そして、盤上の嵐を、現実の将棋から見れば荒唐無稽な肉弾戦として表現したのではないか。

マニアを捨てた諫山

私が読後に覚えためまい、これは嫌悪感と置き換えても良いだろう。私は、なまじっかではあるが将棋知識を持っている。言わば、将棋マニアの一人になるだろう。そして諫山はマニアを捨てた。それは大衆をとことんまで相手にするためではないか。捨てられたからこそ、私は嫌悪したのだ。

すでに述べたように、ここに展開される勝負は、将棋のルールとはまったく関係がない。猪木の言う「殴られる痛みは誰もが知っているからね」の世界が中心だ。諫山も観客を手の平にのせようとしたのか。

諫山のシュールレアリスム

諫山は将棋が持つ二つの顔である「凪」と「嵐」を一つにし、究極までデフォルメして提示した。超現実の将棋。シュールレアリスムとも言える世界観。ピカソやダリの世界である。 彼らの作品を前に、一人の人間に顔が二つあるなんておかしいじゃないか、時計が曲がるなんてことはあり得ないと声高に叫んだところで意味がない。ならば、諫山に対して、こんな将棋はあり得ないと主張することには意味があるのだろうか。いや、きっとない。

ここに至り、私は確信した。「the Killing Pawn」は、紛う方なき革命ののろしを上げたのである。革命は体制を否定することから始まる。では体制とは何か?それは、まさしく私を端くれとするマニアではなかったか。ホーキングが宇宙を愛し、ピカソやダリが芸術を愛したように、諫山には大きな将棋愛があるに違いない。そして将棋愛ゆえに、マニアを捨てたのだ。

私が挑む諫山作品

この作品は読み切りとはいえ、多くの謎を残した。ゆえに続編が発表されることになると、私は見る。そして、その時、私はマニアとして、この作品に挑みたい。諫山よ。捨てられるものなら、捨ててみろ。私というマニアの持つ将棋愛と、諫山の将棋愛がぶつかり合うのだ。皆さんにも一読をおすすめしたい。そして、ぜひ読後の感想を寄せていただきたい。おそるべき作品である。

【関連記事】


■映画・ドラマ・アニメ・韓流・音楽などが月額550円(税込)で見放題!


[初回初月無料おためし]映画・ドラマ・アニメ・韓流・音楽などが月額550円(税込)で見放題の定額制動画配信サービス。簡単登録でいますぐお楽しみいただけます!
※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。