アマチュア将棋界の怪物棋士・早咲誠和
早咲誠和氏はアマ将棋界の伝説
<目次>
恐ろしいほどの優勝経験
全日本アマ名人戦・全国アマ竜王戦・全国アマ王将戦・全国支部名人戦・全国レーティング選手権・阪田三吉全国大会・全国赤旗名人戦……。なにも、私は主要アマチュア全国大会名をやみくもに列記しているわけではない。 これらのすべてを早咲誠和氏は制覇したのである。しかも、全日本アマ名人戦4度をはじめとし、上記のビッグタイトルを通算10回以上も制しているのである。これに地方の大会まで加えると、300回以上の優勝。多くの愛棋家が垂涎の的とする栄光の座に、これだけ多数輝いた経験を持つ人類は過去には存在しない。アマ将棋界史上最強とも言われる早咲氏とはいったい何者なのか。早咲誠和は将棋人生の8割を名人として送ってきた
中学生から将棋を始め、不惑の年代を迎えた早咲氏は、大分県が誇る現役バリバリの棋士である。各種大会での勝率は9割を超え、ほとんどの対局は100手に満たずに終了させしまうほどの圧勝ぶり。高校2年にして「大分県名人位」を獲得し、以後就位した回数は22回。つまり22年間、実人生の半分以上を、将棋人生に限れば8割の期間を「県名人」として送ってきたことになるのである。最強であるだけでなく、最長の強さも兼ね備えた、まさしく怪物棋士だ。将棋に専念できるプロと違い、学生や社会人でありながら、この成績を維持し続けることは奇跡と言っても過言ではなかろう。大分県は彼に「県民栄誉賞(県賞詞)」を贈った。
早咲誠和少年とパッチンと木村義男・十四世名人
幼少期の彼は、興味を覚えたことをとことん研究しつくす子だった。一つ例をあげよう。小学生だった彼のポケットには常に「パッチン」があった。関東では「メンコ」と呼ばれる遊び道具である。名刺大のカードを地面にばらまき、手にした一枚をぶつける。地面のカードがひっくり返れば勝ちという対戦型の遊びである。テレビゲームも存在しない昭和30年~50年代には、子ども達が路地で、道路で、公園で歓声をあげていたものだ。早咲少年も、その一人だった。だが、彼が他の子ども達と違っていたのは、その「探求心」のレベルであった。どうすれば置いてあるカードがひっくり返るのかを究極まで分析研究するのである。
彼は3つのファクターに着眼したという。どの角度で、どの部分に、どの部分をぶつけたらいいのかを研究したのである。そして解を得た。こうなれば、百戦百勝。相手がいなくなった町のパッチン名人は、隣町へ遠征し、そこでも名をはせる。ここに、興味深い資料がある。実は、「実力制初代名人」であり「常勝将軍」とも呼ばれた木村義男・十四世名人(1905年~1986年)もパッチンにかけては誰にも引けを取らない少年時代を送っていたのだ。
将棋の天才の名をほしいままにする二人がパッチンという共通項で結ばれていたのである。今なら、どこかのテレビ局が両者のパッチン対決を企画しそうな気もする。なお、木村に関しては舛田幸三の過去記事「連合国総司令部(GHQ)を詰んだ男~升田幸三~」にも書いているので合わせてお読みいただきたい。
母校に「早咲賞」
実は、早咲少年が通った小学校には「早咲賞」なるものが存在する。もちろん早咲氏の功績を記念しての賞である。地元紙によりこの賞の存在を知った私は、将棋大会で優勝した子どもに贈られる賞だろうと思った。ところが、あにはからんや。なんと、この賞は縄跳びで「二重跳びを連続1,000回失敗なしに続けられた」子どもに贈られる賞だったのだ。そう、小学生時代の早咲少年は、パッチンで無敵になるや、二重跳び1,000回をクリアーする縄跳び少年に変身していたのだ。もちろん、当時の母校では前人未踏の記録であった。パッチンしかり、縄跳びしかり。彼にとっては、遊びであろうが、運動であろうが根は同じ「探求」すべきものだったのだ。
そして、将棋と出会う
中学進学にあたって、彼は考えた。さて、今度は何に挑戦するかな……。そんな時、ふとテレビで目にしたのが、彼曰く「どこにでもいるような」おじいちゃんだった。眼鏡のおじいちゃんは、淡々と将棋を指していた。そして勝った。それを観た彼はこう考えた。「こんな、おじいちゃんがテレビに出るほど強いのなら、僕だって強くなれるぞ」
実は「どこにでもいるように映った」おじいちゃんは、「どこを探してもいないような」おじいちゃんだった。大山康晴・十五世名人その人だったのだ。
将棋に一日16時間を費やす中学生
大山おじいちゃんに触発された早咲少年の「探求心」はむくむくと頭をもたげてきた。驚くなかれ、春休みなどの長期休業には一日16時間を将棋の練習に費やしたのだ。この「16時間練習」は以後6年間継続された。「つらくなかったですか?」と尋ねた私は、「いいえ、当たり前だと思っていました。他に強くなる方法がありますか?」と逆に問われてしまい、そのストイックさに言葉を失った。将棋を始めたその年に大分合同豆棋士大会(参考「過鋳鉄(ちゅうてつ)の扉を開けた棋士~杉崎里子」)中学生の部で優勝し、県最強中学生として、その名を知らしめた。そして、わずか5年という短期間で大分県名人の座を手に入れる。当時高校2年生、もちろん史上最年少の大分県名人誕生であった。その後の大活躍は前述の通り、こうして史上最強のアマ怪物棋士が誕生したのだ。
しかしである。ここまでの話ならば、その驚異的な棋力には感嘆せざるを得ないが、早咲氏個人の偉業である。だが、私はエンゲルスの言葉を借りて、こう書いた。「早咲誠和氏の出現によってアマ将棋界は頭一つ高くなった」と。しかも、その日は2010年8月1日だとまで指定した。つまり、個人の偉業が歴史を変えたのだ。その日、いったい何があったのか。
日本将棋連盟が動いた日~アマ八段新設~
早咲氏の存在がプロ棋士達の注目を集めたのも当然のことだった。アマでありながらプロを破るという快挙も1度や2度ではないのだから、必然のことなのである。そして、2010年8月1日、プロ棋士を中心として組織運営されている「日本将棋連盟」がついに動いたのだ。歴史と伝統を誇る総本山はどう動いたか?なんと、それまで規定のなかった「アマチュア八段昇段規定」を新設したのである。つまり日本将棋連盟は、その歴史の中で、これほど強いアマチュア棋士が出現するなどとは指の先ほども考えていなかったのだ。しかも、早咲氏の個人名をあげて、新設をそのホームページでも発表した。もちろん規定の新設であるから、これ以降、早咲氏のみならず、すべてのアマチュア棋士が、その恩恵に預かるのだ。かくして、アマチュア将棋界は頭一つ高くなったのである。
早咲誠和は、アマチュア将棋界の歴史を変えた怪物!
アマ将棋界の頭を高くしてくれた怪物本人は、今現在も、むしろ頭を低くして将棋に臨んでいる。ガイドが主催する子ども将棋教室「将星会」にも見学に来てくれ、子ども達と将棋を指してもくれた。画像はその時の様子である。子ども達は大興奮。氏は地元子ども達の憧れでもあるのだ。 怪物がその歩みを止めることはない。パッチン、縄跳びで培われた「探求心」は、アマ将棋界の歴史を変えた。そして、これからも変えていくことだろう。最後に、その著書を紹介して今回のガイドを了としたい。【敬称に関して】
文中における個人名の敬称について、ガイドは下記のように考えています。
- プロ棋士の方の活動は公的であると考え、敬称を略させていただきます。ただし、ガイドが棋士としての行為外の活動だと考えた場合には敬称をつけさせていただきます。
- アマ棋士の方には敬称をつけさせていただきます。
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