フォンテーヌブローの歴史 1.ヴァロワ家とイタリア戦争
代々の王たちが礼拝を行った三位一体礼拝堂。神の空間であるため、旧約聖書や新約聖書の物語を主題とする絵画や彫刻が多い
フォンテーヌブロー宮殿と運河。ルイ13世の父アンリ4世は、1200mの大運河と庭園を築いて宮殿の美化を進めた
ハプスブルク家に包囲されたフランスは残された数少ない隣接地のひとつで、当時ルネサンス全盛期を迎え、文化的・経済的に最先端を走っていたイタリアへ触手を伸ばす。これに対してハプスブルク家は教皇や諸都市を味方につけてイタリアに侵入する(1494~1559年、イタリア戦争)。
この頃、フランス王家を支配していたのがヴァロワ家だ。ヴァロワ家のシャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世は、イタリア・ルネサンスを支えたフィレンツェのメディチ家やミラノのスフォルツァ家をそれぞれの街から追放してしまう。両家はのちに復帰するが、ルネサンスの栄光が戻ることはなかった。
フォンテーヌブローの歴史 2.フランスへ渡ったルネサンス
玉座の間。左右のポールにはNのイニシャルと黄金の鷲、天蓋にはミツバチが記されている。いずれもナポレオンの象徴だ
ジャン・クルーエ「フランソワ1世の肖像」1535年頃、ルーヴル美術館
このあとフランソワ1世はイングランドやローマ教皇、さらには新教徒やイスラム教国であるオスマン帝国(オスマン・トルコ)とまで結んでハプスブルク家に挑むが、事態を好転させることはできなかった。
この跡を継いだのがアンリ2世だ。アンリ2世はメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスと結婚してイタリアとの絆を強めるが、イタリアにおける神聖ローマ帝国の優位は崩れなかった。一方、神聖ローマ帝国でもオスマン帝国の圧力や宗教改革の波に襲われて国が疲弊。結局、1559年に両国は和約を結び、イタリア戦争は終焉を迎える。この戦争において、経済面でフランスが得るものはなかったが、文化面では大きな転機を迎えていた。
フランソワ1世が築いたシャンボール城。レオナルド・ダ・ヴィンチが設計に携わったともいわれている。あくまで狩猟用の城館で、内部装飾は簡素だ
フランソワ1世は他にもルネサンスの影響を色濃く残す多くの城や宮殿を築いている。一例が、世界遺産「パリのセーヌ河岸」のルーヴル宮殿であり、世界遺産「シュリー・シュル・ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」のシャンボール城やブロワ城だ。
ちなみに、息子アンリ2世の妻であるカトリーヌ・ド・メディシスはこの時代にフィレンツェのイタリア料理をフランスにもたらし、新鮮な食材を用いた調理法からナイフやフォークを使った作法まで、フランス料理の基礎を築いた。こちらは無形文化遺産「フランスの美食術」に登録されている。