停留所で待っていたもの
停留所の側に…(イメージ画像)
漁師達の喧噪(けんそう)や、父や兄弟達と響かせた駒音が耳の奥底にふるえた。看板にはぶっきらぼうに、こうとだけ書かれていた。「将棋倶楽部」……。
お世辞にも立派とは言えぬその構え。歓迎と言うよりも、他者を拒む結界にも似た何かががそこにはあった。「将棋は男のもの」という敷居は、まだしっかりと残っている。だが、今、聞こえたあの音は、灰の中に眠る炭が種火を残していたことを教えてくれた。停留所で待っていたものは、ぶっきらぼうな看板と指先の熱さだった。
彼女は扉に手をかけた。
捨てがたい郷愁にも似た思いだったのか、移り気な時代へのささやかな抵抗だったのか。はたまた、何気なさを担保にした行動だったのか。
また、あの声が……
やはり、そこは男の場所だった。女の来る所ではなかったのだ。たばこの煙のむこうから、物珍しげな男達の目が扉を開けた彼女を刺した。そして、語るのだ。そう、あの言葉を。「女のくせに」
だが、日をまたがずして、その声は沈黙に変わり、驚嘆へとつながる。
「女なのに……」
「女なのに、こんなに、強いのか」
「あんた、本当に女かい」
そう、彼女は猛者達の群れを、ことごとく打ち破っていったのだ。久々に指した将棋。だが、彼女は強かった。結局、その倶楽部で彼女を破る者はいなかった。
鋳鉄(ちゅうてつ)の扉が開く
時代がかぶせてきた灰が一気にふき飛んだ。その種火は、赤々と燃え上がった。時代の抑圧も、10年以上の歳月さえも消せなかった将棋への思い。ふと目にした将棋倶楽部がその思いを覚醒(かくせい)させた。この時、鋳鉄のように重かった運命の扉は開いたのだ。
彼女は将棋を愛していた。いや、将棋の方が彼女を愛していたのかもしれない。そうだ、きっと、そうだ。将棋が彼女を選び、ずっと待っていたのだ。扉を開けたのは、たしかに彼女だ。だが、開けさせたのは、将棋だった。
運命は、偶然と必然の線引きを曖昧(あいまい)に、いや、時として無意味化する。その後の彼女の足跡をたどればたどるほど、私はその感を強くする。
あるプロ棋士から、こんな言葉を聞いたことがある。
「1週間、いや3日間、将棋から遠ざかると自信がなくなりますね。」
もちろん、常人では測り知れぬ強さを持つプロ棋界でのことだ。だが、アマとは言え3日どころではない。なんと10年以上の空白を抱えながら、将棋好きでならす男達を総なめにしたという事実は、棋力だけではなく運命の加護によるものだったのではないか。ブランクだけではない。「女のくせに」という時代の風潮さえも、彼女のために用意された道しるべだったと今は思えてしまう。
彼女は1972年、1973年(昭和47年、48年)と2年連続して「全国女流アマ」準名人となり、1975年(昭和50年)に大分県で初の女流プロ棋士となる。大分合同新聞社の将棋欄観戦記者としての活動を始めたのもこの頃だ。
豆棋士たちが咲かせた花
「やっぱり、オーラがあったよ。」
花を見ることなく逝く
最後に書いておきたいことがある。彼女が将棋だけではなく、「和洋裁教室」も最期まで続けていたことだ。彼女は母に止められた将棋とすすめられた裁縫を両の手に持って逝った……。大切にそっと持って逝ったのだ。