都心、湾岸、横浜へも直通、
中心部に基地跡地を抱える街
昭和42年3月に埼玉県内で27番目の市として誕生した朝霞市は、埼玉県の南部に位置し、東京都練馬区と埼玉県志木市、和光市、新座市、荒川を挟んでさいたま市、戸田市と隣接する街。都心からは約20キロ圏にあり、東武東上線とそれに乗り入れする東京メトロ有楽町線、同副都心線を介して東急東横線、みなとみらい線とも乗り入れ、都心はもちろん、湾岸、横浜にもダイレクトにアクセスできます。
明治43年の大水害をきっかけに、荒川、新河岸川などの河川で改修工事が行われることになり、この地域の交通の主役は大正3年に開通した東武東上線に取って変わられます。その後、街を大きく変えることになったのは昭和7年の東京ゴルフ倶楽部移転です。日本人向けとしては我が国初めてのゴルフ場はもともと、世田谷区駒沢にあり、倶楽部の名誉総裁は皇族であった朝香宮鳩彦王(やすひこおう)。倶楽部移転と同時期に町制が施行されることになり、それではと倶楽部の許可のもと、町名が朝霞(朝香そのままでは畏れ多いとのことで一字のみ変えた)となったのです。ちなみに以前の町名は膝折。今も川越街道沿いの地名として残っています。駅名もこの時、一緒に朝霞となっています。
ゴルフ場移転が変えたのは町名だけではありません。ゴルフ場となった広大な平坦地はその後、日本軍の軍事施設となり、戦後はアメリカ軍が進駐、キャンプ朝霞となります。それから昭和35年の自衛隊駐屯、昭和49年のほぼ全てのアメリカ軍基地返還まで、朝霞は基地の街でした。現在、その跡地には小学校や図書館、陸上競技場などの各種の公共施設が整備され、市民のスポーツ・文化活動などの場として利用されています。
ただ、すべてが活用されているわけではありません。約19.4haは将来のために留保する土地として国有地となっており、一時は国家公務員宿舎建設が予定されていましたが、紆余曲折を経て、現在は暫定的に一部が朝霞の森として公園に。一方で跡地内の土壌汚染、アスベスト利用などが発覚、撤去作業などが行われました。基地跡地は朝霞市役所南側の広大な土地であり、緑の豊かな場所。どのように活用されていくかはこの街の今後を握る大きな鍵となりそうです。