歌舞伎の中でしばしば登場する「抽象化」された表現。これはたいへんに洗練された表現様式だと考えられるものです。これらについて、江戸の人の感性の豊かさ、舞台との間に成り立っていた約束には、いつも驚かされます。
 

花道は変幻自在

歌舞伎の中では、しばしば「省略」「抽象化」といった表現が持ち込まれます。その最たる例が「花道」でしょう。同じ通路でありながら、出てくるときと、入っていく時では異なる場所になっている、というのはごく当たり前に行われます。

現代劇であれば、出てきた花道を引き返せば、当然それは「同じ道」として機能しますし、観客もそのように理解するでしょう。

ところが歌舞伎では、先ほどは「道」として使われたばかりの花道は、次々と姿を変え、時には川、時には海と自由に変化していきます。
はなみち

花道



変装は一瞬で

もうひとつ例をあげましょう。「菅原伝授手習鑑」の「加茂堤の場」。ここで妻の八重が夫の桜丸になりすます、というシーンがあります。当然、現代人の私たちの感覚なら、この変装はかなり念の入ったものになるはずです。女性が男になりすますうえに、物語の設定上、それが他人に見つかると一大事に発展する場面だからです。

ところが、八重は桜丸の上着を羽織るだけです。しかもそれは舞台にいる桜丸が着たものですらなく、黒衣の手によって、より八重が美しく見えるための衣装に取り替えられてしまいます。どこから見ても、女性にしか見えない八重のまま、衣装をわずかに変えただけです。髪型を変えるどころか、隠すことすらしません。現代で言えば、女性が男物の上着を羽織っただけで顔も髪もそのままでいるようなものです。
へんそうごのやえ

変装後の八重(着物を一枚羽織るだけ)



江戸の観客のセンス

この自由な発想は、いかに江戸の観客が演劇というものに対して柔軟で洗練された感覚を持っていたかを、私たちに教えてくれます。

つまり、江戸の観客たちは「八重が桜丸になりすます」という物語の流れの中で、【新たに着物を羽織った=八重は桜丸に変装した】という「約束」を舞台との間に、一瞬で成立させることができた、ということです。

どうも現代の我々は「江戸時代の人間より、現代の自分たちのほうが進んでいる」なんて考えてしまいがちです。もちろん「科学」という視点ではその通りでしょうが、演劇センスということではどうでしょうか?むしろ江戸の人々の優れた感覚に学ぼうという目で、磨き上げられた江戸の演劇感覚を自分の中に育てる方が、はるかに舞台を楽しく見ることができるように思えるのです。江戸の先輩たちに対する「尊敬」の念をもつことで、今まで見えなかった歌舞伎の世界が開けてくる。そんな気がしませんか?

※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。