ゼンタイが象徴するもの
橋口監督は、一貫して、人間関係のヒリヒリするような痛みを笑いとともに描き、生のリアリティや人生の真実を伝えてきました。今回の新作は、『ぐるりのこと。』とはまたぜんぜん違った角度から「絶望の淵からはい出し、希望を見出す」人間の姿を描いていると思います。日常生活ではさまざまなストレスや生きづらさ、しんどさ(見てるのがつらいくらい、本当に痛かったりします)を抱えた人たちが、ゼンタイのオフ会に集います。パッと見、シュールな光景ですが(ついでに会話の内容も「アホちゃうか」とツッコミが入りそうなものだったりもして)、実はとても奥が深くて、魅惑的です。
ゼンタイの人が「なんでもないモノになる」と語るシーンがありますが、全身タイツ1枚着ることで、年齢も性別も人種もルックスも不明な、人間かどうかさえわからない存在となるというのは、ある意味「自分(という枷)から解放される」ということで、ものすごい「癒し」なんだと思います。
でも、考えてみると、ぼくらゲイは、たとえば(ふだんとはちがう仮面をかぶって)名前も素性も知らない人たちと出会ったり、たとえば女装したりして、素の「自分」という呪縛から解放され、癒されるということにわりとなじんでいると思います。ゼンタイとはそうしたものの象徴、こちら側(ケ、日常)からあちら側(ハレ、非日常)へと移行する仕掛け(儀式、あるいは魔法)のようなものだと思います。
そして、ゼンタイとは世間から見ると「ヘンタイ」でもあり、笑いを誘うようなありようでもあります(宴会芸用に全身タイツが売られているのを見たことがある方も多いはず)。実際に映画でも「ヘンタイ」を表現しているシーンなんかもあります(ゲイの監督ならではのエピソードも。要注目です)
非日常を生み出すことで心を解放し(癒し)、ヘンタイ性を受容することで体をも解放する……ゼンタイとはなんと素晴らしいものでしょう。ゴトウも「あの世界に参加したい!」と思いました。
ゼンタイとは、失われた「全体(世界)」を取り戻す魔法。そして、ゼンタイのオフ会とは、ヘンタイを肯定し、心許し合える仲間とレンタイできる時間。奇跡のような世界がそこにはありました。
何か生きづらさを抱えている方たちが、この作品を観て、自分にとっての「ゼンタイ」を見つけられるキッカケになったらいいなあと願うものです。