前人未踏の七冠達成者・羽生善治
1996年の偉業達成から20年年以上経った今でも、将棋界の第一人者として、何らかのタイトルを保持し続けているただ一人の棋士。言わずと知れた将棋界の巨星である。その思考力は、脳科学者や人工知能開発者たちの興味を引き続け、JOCはその決断力を五輪選手に伝授してもらおうと、彼を講師として招いた。「人類史上、最も深く考える人」と賞賛する声もあがっている。また、照れくさそうな笑顔や、寝ぐせがトレードマークという飾らぬ姿に母性をくすぐられると言う女性も多い。棋士の中でもバツグンの知名度と好感度を持ち、CM業界からも声がかかる。彼の、神がかった「知性」と、一方でどこか守ってあげたくなるような「純真さ」が人々の心をとらえ続けているのである。
だが、羽生善治の将棋はそうではない。誤解を恐れずに言えば、彼を「知性」と「純真」という窓口からのみ見ていては惑わされてしまうのだ。実は、「野性」と「どう猛」こそが彼の将棋の正体であり、そこにも焦点合わせねば、棋士・羽生善治を語れないのである。
羽生マジック
愛棋家ならずとも、一度は耳にしたことのある言葉ではないだろうか。同じプロ棋士という天才集団をして、「マジック」と言わしめるほど意表をついた手であり、自分に不利だった局面を、いつの間にか勝利へと向かわせる「羽生ならではの妙手」として創られた言葉である。将棋ファンならば、羽生の対局をリアルタイム解説するプロ棋士達が「えっ」と驚きの声あげるシーンを目撃したことがあるだろう。それが、数手先には「ああ……」とため息に変わり、最後の締めは「これこそ、羽生マジックですね」となる。
だが、この言葉も羽生将棋を誤解させる一因だ。実際、彼自身もどこか違和感を覚えているようで、「自分は、常にその局面で最善だと判断した手を指しているのであって、奇をてらっているのではありません」と語っている。
「猛手」ともいえる羽生の最善手
羽生が最善手だと判断した手は「妙手」などではない。「好手」などという言葉は生やさしすぎるのだ。造語を許してもらえるならば、牙をむいた野獣のように襲いかかる「猛手(もうしゅ)」である。羽生善治があやつる駒は81マスのジャングルに潜み、足音を忍ばせながら獲物に近づいていく。そして、相手がチーターならば足に、象ならば鼻に、ライオンであればのど笛に猛然と食らいつく。そう、羽生はあえて相手の最も得意とする戦法にねらいを絞って襲いかかるのだ。それが、彼が言うところの「最善手」なのだ。
対局中の羽生の写真をご覧になったことがあるだろうか。まだの方は、ぜひ、ご覧になることをおすすめする。
写真家が逃さなかったその目は、その形相は、まさしく獲物をねらう猛獣、盤を離れた「羽生さん」からは想像もできぬ恐ろしさなのである。 私は、プロ棋士・飯島栄治が語るのを聞いたことがある。いわく「僕は、羽生さんの顔を見ないようにして指すんです」
断っておきたい。飯島は、けっして弱くはない。それどころか、升田幸三(ますだこうぞう)賞という、新手・妙手開発者に贈られる、将棋界でも非常に権威ある栄誉に輝いたこともある、押しも押されぬ強豪棋士なのである。
その飯島をして、冗談交じりではあろうが「顔を見ないようにする」と言わしめたのである。
洗心。現代日本が失いつつあるものを将棋盤で見せ続ける
羽生が併せ持つ「知性」と「純真」そして「野性」と「どう猛」。そのどれもが、現代日本が失いがち、いや、失いつつあるものではないだろうか。それを、私たちに見せてくれる人間、それこそが、羽生善治なのである。そして彼は、不惑を過ぎた今でも、縦横40cmに満たぬ「将棋盤」というステージの上で、進化をし続けているのである。最後になったが、私の宝物である「名人から頂いた揮毫(きごう)」をお見せして、この記事を終えることにしよう。
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追記
「敬称に関して」
文中における個人名の敬称について、ガイドは下記のように考えています。
- プロ棋士の方の活動は公的であると考え、敬称を略させていただきます。ただし、ガイドが棋士としての行為外の活動だと考えた場合には敬称をつけさせていただきます。
- アマ棋士の方には敬称をつけさせていただきます。
- その他の方々も職業的公人であると考えた場合は敬称を略させていただきます。
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