「戻ってこないか?」
業界初の女性営業。意欲に燃えるも、周囲の理解はなかなか得られず・・・・・・ |
残念ながら、退社が続いてしまいましたが、もちろん働くのをあきらめたわけではありません。
当時、専門学校の同級生たちは、キャリアを持って活躍している人が多かったので「仕事がしたい」といろいろな方面に声をかけておきました。すると、8ヶ月で辞めた最初の会社に勤務する友人から、「社長が、若林さん、戻ってこられないかと言ってるんだけど」と連絡が入ったのです。
当時の社長によると、「1986年、雇均法も制定されるわけだし、これからは、女性の時代だ、ぜひ戻ってきて欲しい。女性にもこれからは、戦力として働いてもらいたい」というお話でした。前職を退職して、ちょうど1年後に再度、その会社に就職しました。
さらに、「今度の仕事は、社長秘書でなくてもいい、あなたの好きな部署で仕事をしてよい」という社長のお話をいただきました。私は、会社のことを知るには、いつも動きのある営業がよいと思い、営業秘書を希望しました。
希望がかなってからは、営業秘書として、翻訳、タイプ、テレックス、売掛金、お客様応対の電話を取ったりと忙しい毎日でした。船に関わる仕事というのは、英語が必要な場が多いのですが、社内に英語ができる人が意外に少なく、文書の英訳や、パンフレットの和訳の仕事もするようになっていました。
「女性初」の営業職に
当時は、ものすごい「男性社会」の造船業界。「悔しい思いをしたこともたくさんあったけれど、今では、この経験に感謝しています」と若林さん |
それまで私は、船なんてまともに見たこともなかったし、自社で販売している装置を見たことがなかったんです。でも、見積書を作るには、仕様がわからないと作れませんから、三重県にある工場の設計部の方々からいろいろ教わったりして、必死で勉強しました。自社の装置を装備したカーフェリーに、子どもを連れて、夏休みに「有明埠頭」から「那智勝浦」まで、一晩乗船したこともありました。「これがうちの装置を搭載しているフェリー(船)なんだ」って思いながら。
でも、いざ営業の仕事を始めてみると、周りは、わからないことだらけ。男性中心の業界ですから、「女が!」と陰口を叩かれたり、面と向かって言われることもたびたびありました。でもめげなかった。知らないことを知るのがおもしろくて、めげるよりも好奇心の方がが勝っていたんです。
当時は、「女なんて」「女のくせに」と平気で口にする時代。営業先の韓国造船所本社に挨拶に行かなくてはならないのに、女だからと、上司は同行を認めてくれないんです。上司にしたら「なんで俺の部下が女なんだ」って感じです。当時は、それが当たり前だったんですよね。
でも、当然のことながら取引先からも「なんで挨拶にも来ないんだ」という声が上がりはじめ、客先造船所の担当者たちが私を行かせるように根回ししてくれて、やっと客先「韓国造船所」本社への挨拶回りが実現しました。これが、なんと社内でも初・女性営業の海外出張になりました。
業界初の女性営業。周囲の反応は、「面白い!」という人と、「女が!」という人と半分半分だったようです。では、さらに続く「女性だから」の逆風。若林さんは、どのように乗り越えていったのでしょう。>次ページへ