(2006.04.12)

かつてのキングメーカーだった金丸信の逮捕により自民党政治はかつてない批判にさらされ、政治改革への動きは加速します。そして自民党1党支配体制=55年体制は崩壊するのですが、政治の混乱は増すばかりでした。

1ページ目 【55年体制の崩壊と細川政権の成立】
2ページ目 【小沢と社会党の対立と決裂、羽田政権】
3ページ目 【村山自社さ連立政権の発足、そして橋本政権へ】

【55年体制の崩壊と細川政権の成立】

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宮沢内閣不信任、自民党衆院過半数割れへ

1993年、ゼネコン疑惑の噴出と、かつてのキングメーカー金丸信の巨額脱税容疑での逮捕。これら一連の事件で、世論の「政治改革要求」は一気に噴出します。

そしてそれは小沢一郎らによってたくみに「小選挙区制の導入(選挙制度改革)」へと変換され、首相宮沢喜一はなんとかこれを実行しようとしますが、党内の反対が根強く、うまく行きません。

そんななか、テレビ朝日の生放送『サンデープロジェクト』で宮沢喜一首相は政治改革の実現を明言。テレビ政治時代が幕を明けていたこのとき、宮沢は自分の発言でまさに自らの「退路をたつ」(草野厚『連立政権』)ことになってしまいました。

しかし「政治改革(その実は小選挙区制の導入)」は難航。インテリ宮沢はマスコミから「嘘つき」よばわりされ、次第、次第に追い込まれます。

結局、選挙制度改革法案はご破産になり、若手議員らは早朝宮沢を訪問し激しく詰問。この様子はテレビで大々的に報じられました。誰もが、もう宮沢政権はもたないと感じていました。

そして野党が内閣不信任案を提出。これに小沢・羽田派と、武村正義ら一部の自民党議員集団が同調し、不信任案は可決、衆議院解散へ(三塚派から分かれた加藤六月グループも自民党離党)。そして総選挙の結果、自民党は過半数を大きく割る223。

自民党1党支配体制としての「55年体制」はここに崩壊しました。

河野総裁選出で政権維持に望みを託す自民党

しかし、自民党がずばぬけた第1党であることには変わりなく、宮沢は小政党との連立多数派工作にかけますが、不調に終わり政権維持を断念。こうして、政権維持に一縷(いちる)の望みを託しながら、自民党総裁選挙が始まります。

一時、日本新党・新党さきがけをとりこむため、クリーンなイメージと政策通で知られる後藤田正晴を総裁にする動きがありましたが、これは不調に終わりました。

その後、竹下派=経世会は知名度のある橋本龍太郎を推そうとします。本人もやる気を見せますが、立候補受け付け2時間前くらいになって、元新自由クラブだった宮沢派の河野洋平が出馬するという知らせが届きます。

経世会内部では早急に議論した結果、橋本をなだめて立候補を辞退させ「自主投票」を決定しました。このとき、中曽根の後継、渡辺美智雄も出馬を表明していました。

「政治改革優先の政局」「悪の権化=経世会」という悪い流れのなか、橋本が「第3位」という結果に終わることのダメージを、竹下派の議員たちは恐れたのです。

結局、河野・渡辺の一騎討ちとなった総裁選挙は、クリーンなイメージの強い河野が制し(河野208票、渡辺159票)、河野が「野党時代の自民党」を担うことになります。

リベラルな河野が総裁になることで、社会党(特に左派)が自民党になびくのではないかという期待も持たれましたが、小沢はすかさず土井たか子・元社会党委員長を衆院議長にすえることとし、社会党が自民党へ向かう動きを封じました。

細川・非自民政権の誕生

自民党から離党し羽田孜を党首とした小沢の新生党は55議席を獲得。同じく自民党から脱退したグループで作られた新党さきがけは武村を党首にして13議席を獲得。

公明・民社・共産は微増または微減。際立って惨敗したのは、議席を半数(70)に減らした社会党でした。小沢が考えていた「左翼勢力の壊滅」というプランは、まずは成功したわけです。

しかし、この議席数で自民党から政権を奪うには、どうしても社会党との連携が必要。矛盾に満ちてはいますが、敵であるはずの社会党と普通に手を組もうとするところに、独特の「小沢手法」をみることができます。

しかし、社会党を巻き込んだ連立政権を作るには、自民色の濃い人物、たとえば羽田などを首相にたてることは難しい。

しかし小沢は、意外と早く動いていたようです。おそらくこの人物なら丸く収まるだろうと。……こうして35議席を獲得した日本新党を率い、国民的人気も急上昇していた元熊本県知事・細川護煕を首相とする、社会党も取り込んだ非自民・非共産の連立内閣がスタートしたのでした。

細川政権短命の理由とは

しかし、小沢が期待した細川政権は8ヶ月の短命に終わりました。

旧熊本藩主細川家の当主であり、近衛文麿の孫でもある細川のパーソナリティも、短命になった一因でしょう。彼は災害視察地に防災服ではなくスーツを着ていったり、おしゃれにマフラーを着こなしてみたりと、格好はよかった政治家でした。

しかしその反面、政治家としての大事な資質である「権力への執着」は極めて薄かったといわざるを得ません。結局彼は1998年、還暦を迎えたことを機に政界を引退しています。

また、当初は盟友関係にあった武村と不和になっていったのも、政権短命の一因といえるでしょう。

93年~94年、バブル崩壊はもはや誰の目にも明らかでした。実質GDP成長率はぎりぎりプラスの状態、平均株価はピークの半分まで落ち込み企業業績は悪化、「就職氷河期」という言葉が生まれるほど労働市場は冷え込んでいました。

武村は、政治改革より景気対策を優先させるよう細川に進言しますが、細川は聞き入れず、次第に2人の間に距離が開くようになってきていました。細川は次第に武村よりも「1・1ライン」=小沢一郎・市川雄一(公明党書記長)らに接近していくようになります。

93年末田中角栄が死去。そして翌年、自民党の反撃が始まったのでした。

国会
55年体制の崩壊……それは政界再編の序章にすぎず、2大政党制までのゴールのはるか遠方だった(写真は国会議事堂)