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自民党の歴史(10)小沢一郎と総与党体制(3ページ目)

自民党の一党支配体制=55年体制は崩壊しましたが、それは小沢構想の序章でしかありませんでした。しかし、大きな混乱と自民党の反撃が小沢を襲います。細川政権から自社連立政権までを振り返ります。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【55年体制の崩壊と細川政権の成立】
2ページ目 【小沢と社会党の対立と決裂、羽田政権】
3ページ目 【村山自社さ連立政権の発足、そして橋本政権へ】

【村山自社さ連立政権の発足、そして橋本政権へ】

村山・自社さ連立政権の誕生

社会党幹部は狼狽しました。政治改革を唱え続け、クリーン宰相三木を師匠にあおぐ海部の突然の自民党離党と首相指名選挙出馬。これはわからなくなった……だれもが、そう思ったに違いありません。

そして、自民党・社会党議員のなかからも海部に同調しようという動きも現れました。また、社会党の連立そのものに反対だ、理念がないではないか、という動きもありました。

特に中曽根元首相が指名選挙直前に自社連立反対を語り、報道が駆け巡ったことで、ますます不透明な空気が国会を覆っていきました。

この渾沌(こんとん)とした状況のまま始まった衆議院本会議での首相指名選挙。村山241票、海部220票、白票43票。自社両党から多くの「造反」議員が出ていました。こうして過半数に誰も届かず、決選投票に。

そして決選投票では村山261票、海部214票。結局海部は届かず、村山自社さ連立内閣が樹立されることになったのでした。

しかし村山はこれが社会党分裂のきっかけを作ったと振り返ります(前掲『村山政権とデモクラシーの危機』)。実際、このあと政界構造は大きく変化していき、小沢ら非自民政党はやがて合流して巨大野党・新進党を結成。社会党の埋没は加速していくのでした。

社会党内部も危機感を強めます。95年初め、社会党の一部は離党・新党にむけて動き出します。しかしその矢先、阪神淡路大震災がおこり中止に。しかしこれは後の民主党結成へとつながっていきます。

村山首相が直面した多難な政治情勢と「限界」

村山政権を支えたのは、社会党幹部よりも、自民党、特に森や亀井、野中広務らといった人々でした。何とも皮肉な構図です。そしてほどなくして、村山自身、自分の政権担当能力に疑問を持つようになっていくようになります。

冷戦構造崩壊の中、日本は阪神淡路大震災やオウム地下鉄サリン事件などを経験し、今までおろそかにしてきた(アメリカに依存してきた)「危機管理」の重要性を痛感します。

村山もそうでした。しかし同時に彼は、それが第3党党首であり、強力なリーダーシップも持ち合わせていない彼自身の手には負えない大きな問題であることも痛感するようになります。

さらにこの年(1995年)はいわゆる「戦後50年」。冷戦構造崩壊後の「総保守体制」が進むなか、50周年決議採択で社会党が独自性を発揮することはできませんでした。

そして沖縄基地問題の表面化。少し前まで日米安保条約すら違憲と考えていた社会党の委員長に、この問題を現実的に処理する能力がないのは目に見えていました。

95年夏の参院選は、新進党にとって始めての国政選挙でした。新進党の議席は19から40に倍増、社会党は16と惨敗しました。村山は河野に政権を譲ろうとしますが、辞退されてしまいます。

橋本、自民党総裁に選出

自民党にとって95年参院選は、89年の歴史的惨敗をとげた参院選の改選にあたるものでした。連立与党として、多くの議席回復が望まれました。しかし結果は33議席から49議席まで回復したのみ。

ここで、河野総裁責任論が浮上。ここで死んでいた経世会、もとい、名を改め平成研究会となった竹下派が動きます。特に活発に動いたのが野中と梶山静六でした。もちろん、擁立したのはプリンス橋本です。

結束した竹下派は、往年の強さを見せました。あっという間に形成は橋本に傾き、河野は総裁選への不出馬を表明。結局、YKKのひとりで三塚派、小泉純一郎との一騎討ちになり、橋本304票、小泉87票。

こうして自民党総裁になった橋本に、96年はじめ、村山は政権を譲ります。これ以上村山を止めることはできませんでした。自民党の幹部たちは、村山にできるだけ早く首相を辞めたいことを、はっきり、何度も告げられていたからです。

こうして橋本政権が誕生。このことは自民党の復活、そして「経世会」の復活を示すできごとでした。こうして政局はふたたび「経世会」中心の争いになっていくかに見えました。

そこに割って入ったのが鳩山由紀夫と菅直人、そして社民党(村山退陣直後、社会党から党名変更)の大半が作った民主党でした。しかしここから後のことは、次回にお話しましょう。

「総与党体制」に隠れていた日本経済の深刻な実情

1993年の55年体制の崩壊、そして1996年初頭の村山内閣の総辞職。この間、共産党をのぞくすべての政党が政権を担いました。まさに「総与党体制」です。

この動きのなかで左派勢力は大きく後退していきました。それは小沢一郎の構想通りでした。しかし、それは小沢にとって理想的な二大政党制を作り出すことはできませんでした。

小沢の「剛腕」は、多くの支持と、より多くの反発をかい、日本政治は「小沢対反小沢」というきわめて感情的な対立軸ができあがってしまいました。

そのどたばたのなかで、バブル崩壊後の経済はなかなか回復していきませんでした。資産(土地・株式など)デフレと、それにともなう不良債権の問題のほとんどは、先送りされていきました。

そして財政状況は悪化の一途。このようななか、橋本は政権のかじ取りを行わなければならなかったのです。

「自民党の歴史(10)小沢一郎と総与党体制」についての参考書籍・資料はこちらをごらんください。

▼こちらもご参照下さい。
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