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自民党の歴史(10)小沢一郎と総与党体制(2ページ目)

自民党の一党支配体制=55年体制は崩壊しましたが、それは小沢構想の序章でしかありませんでした。しかし、大きな混乱と自民党の反撃が小沢を襲います。細川政権から自社連立政権までを振り返ります。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【55年体制の崩壊と細川政権の成立】
2ページ目 【小沢と社会党の対立と決裂、羽田政権】
3ページ目 【村山自社さ連立政権の発足、そして橋本政権へ】

【小沢と社会党の対立と決裂、羽田政権】

細川政権の迷走

細川政権は、94年初め、小選挙区比例代表並立制導入のための法案の衆議院通過はなんとか果たしますが、参議院では社会党の一部の造反もあり否決。

しかし自民党も、このままでは「反政治改革」のレッテルが外せません。結局、細川・河野のトップ会談で妥協が図られ、修正案が両院で可決。なんとか小沢ら念願の「政権交代可能で二大政党制を実現する小選挙区制」導入が果たされました。

しかし、ここから細川政権は迷走。当時3%だった消費税を7%の「国民福祉税」とする構想は、発表するもののすぐに撤回。寝耳に水だった社会党や武村が強く反対したからです。社会党と細川=小沢の距離はさらに離れます。そして、社会党と武村が接近していきます。

こんななか景気対策は遅れに遅れ、予算審議は難航、株価は下落の一途をたどります。そんな混乱の中、細川にとどめを指したのが「佐川急便問題」だったのです。

細川首相、いきなりの退陣

自民党は三塚派の有力メンバー森喜朗が幹事長、政調会長には橋本が座りましたが、なかなかこれといった手を打てずじまいでした。

そんななか、細川首相に佐川急便から多額の借入金があるという情報が舞い込みます。最初はゆるい追及で交わされてしまいますが、そのうち元警察官僚の亀井静香、自民党法曹団幹事長の高村正彦らが徹底追及を開始。

そのため次第に国会は紛糾。予算の年度成立はならないどころか、メドもたたない状態。そして細川は4月8日の与党首脳会議で辞意を表明。村山富市・社会党委員長がそれを報道陣に伝えました。

藤原氏筆頭家と室町幕府管領家の血を引く「華族宰相」は、ドロドロとした政局の混乱に耐えることはとてもできなかったのでしょう。

渡辺を引き抜きたかった小沢

小沢の次の1手、それは羽田、ではなく、渡辺美智雄でした。

以前からテレビに積極的に出演するなどして知名度が高く、経済通で、しかも中曽根元首相の派閥を引き継いだ渡辺が、新政権の顔になることは非常に魅力的にみえたからでしょう。

実際、細川政権時代から、小沢らは渡辺にアプローチをしており、渡辺もそれに対して、まんざらな感じではありませんでした。渡辺政権の誕生は、十分な可能性を持っていました。

しかし、渡辺は断念します。離党ができなかったからです。派閥をまとめきれなかったと思われます。小沢は1人でも応援するつもりと渡辺に伝えたようですが、渡辺は迷った末、あきらめたのでした。

しかし、小沢は渡辺との合流をあきらめていませんでした。ほどなくして、渡辺恒雄・読売新聞社長の仲介で小沢と中曽根の秘密会談がもたれたともいわれています(『経世会竹下学校』大下英治)。

とにかく、このようないきさつのすえ、羽田政権が発足しました。……このころ、渡辺は健康不安も抱えるようになっていました。彼は1995年、死去します。

短命に終わった羽田政権と「改新」騒動

さて、小沢と市川は、社会党が与党第1党の状況をなんとか変えるべく策を練りました。

そして羽田政権誕生直後、民社党委員長・大内啓伍が社会党とさきがけ抜きの統一会派「改新」結成を発表。小沢らは、社会党の倍ちかい130議席を持つ衆議院第2会派を誕生させたのです。

しかし、またもや寝耳に水の社会党は激怒し政権離脱。さきがけも閣外協力という形で距離をおくことに。

ここが1つのヤマでした。小沢は取り返しのつかない大きな失策を演じたと言えるでしょう。しかし社会党もまた無責任でした。彼らは非自民政権の維持を、メンツのためだけでいとも簡単に放棄したのです。

羽田政権は過半数に届かない少数与党政権になり、いつ倒閣してもおかしくない状況に追い込まれました。6月、予算がようやく成立した直後、自民党が内閣不信任案を提出。羽田は悩んだあげく総辞職を選び、政権はわずか64日で倒壊しました。

自民・社会の接近と小沢驚愕の一手

このころ自民党幹事長の森は、社会党の幹部・野坂浩賢らと接近していました。そして羽田政権崩壊後、自社両党の接近は公なものとなり、自民党は村山・社会党委員長を首相に擁立する案を提示します。

社会党幹部は、これで自社、そしてさきがけを加えた連立政権を作ろうとして意気揚々、委員長・村山の説得に動きます(さきがけとは、すでに「政策協定」が合意されていた)。

もっとも肝心の村山は、第2次羽田内閣への参加に向けた交渉を行っていて、社会党の幹部を待たせます。しかし税制部分などで合意が詰め切れず。こうして、「自分から立候補したことがない」というのが口癖の村山は、「期せずして」(本人談、『村山政権とデモクラシーの危機』岡野ら編)、周りに推される形で首相指名候補になったのでした。

もっとも、村山=羽田交渉の不調の原因はそれだけではありませんでした。らちが開かない状況に業を煮やした小沢が、自民党から海部俊樹・元首相を引っぱりだして交渉を打ち切ろうとしたのでした。それは驚愕の一手でした。

握手
小沢は政権維持のため、手を組む相手を探し続けた……社会党、細川、渡辺、そしてウルトラC・海部の擁立へ

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