せいろぅ、いちまぃぃぃぃぃぃぃぃ~~
蕎麦といえば、やぶである。やぶそばというと、いつもショーファードリブンの黒塗り高級乗用車が店の前に待機していて、なんだか近寄りがたい存在である。でも、1,000円札一枚持っていれば高級料亭に入っていく気分が楽しめる、そういう得難い店でもある。東京案内やデートコースに組入れて、損のない存在だ。
ここは神田連雀町(旧町名)、あのまつやさんも同じご町内である。ビルの谷間の一軒家という貴重なロケーション。立派な門構えを一歩踏み込むと、木造ながら開放感に溢れたファサード。竣工当時としては傑出したモダーンさの意匠が目に飛び込んでくる。
一方に江戸からの伝統を守ろうとするそば屋があり、そしてこのように、伝統に立脚しながらも、時代を見すえて新しいカタチに脱皮していくそば屋もある。かんだやぶそばは、江戸を感じつつ進取のモダニズムが薫る、要するにニューウェイブそば屋の先頭バッターなのである。この店は、決して守りに入っていない。そういう視点で見つめなおすと、いろいろと興味深い物が見えてくる。
能書きはともかく、きゅきゅーっと蕎麦前で咽を湿らせよう。人肌で所望した一合は菊正宗。アテに添えられた味噌をなめながら、広い店内の内観パースペクティブをアイロ(文色)もさだまらぬ眼差しで眺めるでもなく眺めぬでもなく見渡してみると、この店舗の近代的なシカケに愕かされること必至だ。
この店舗のカナメは、帳場に座る堀田令夫人の網膜なのである。「さんばんさーーーーん、せいろぅ、いちまいぃぃぃぃぃ~~~~~~~~~~」と、環境音楽のような美声をデクレシェンドさせながら、令夫人は眼球を120度ばかり回転させる。すると、東司に至る裏庭への通路から、三室におよぶ客席のすべて、そして相当広い厨房の一切、隣に座る番頭さんの目配せ、花番さんが持ってくるオーダーシートに至るまで、現下に発生している店内の事象万端を1.5秒でスキャンして頭脳にインプットし、「ごばんさ~~~~~~ん、おちょうしぃ、にほんんん~~~~~」とその結果を即座にアナウンスするのである。
さしずめ、アメリカンフットボールのクォータバックのごとし。かんだやぶそばは、最強のチームワークでそば好きに素晴らしい居心地を提供しているというわけなのである。
やがて、注文していた鴨の餅煮(735円)が運ばれてきた。餅をのり巻き状に抱き身でくるっと巻いた種が、かけ汁で仕上げられている。旨い。
はじめてやぶに来たという若い女性たちにお話を伺うことができた。おそば大好きということで、よくおそばやさんを食べ歩くという。最近実感することだが、そばの人気は性別を超え全年齢層にわたって高まってきているように思う。とても素晴らしいことだ。
私は季節の種物である「かきそば(1,050円)」を注文した。旬の牡蠣と若芽がトッピングされた一杯。暗い席であったのであまり美味しそうに映っていないが、これ、絶品である。10月下旬から3月までの限定提供。つい先頃まで出されていた「松茸そば(3,150円)」に代わっての登場である。季節商品の中でもかきそばが一番お値頃である点も嬉しい。
種物であっても、そば湯が提供される。種物の汁は、最後まで呑み干せる位の濃度であり、そば湯を必要としないと思うのだが、そこはそれ、そば湯を楽しみにくるお客様がいる。心憎いばかりの配慮である。
最後にせいろう(630円)を注文した。よく巷でやぶのセイロは盛りが悪いと言われているが、私はこれで丁度よい。隣の若い人たちは2枚ずつ食べていただが、そういうことでいいのだと思う。おつゆについても、辛い辛いと言われているが、生返しの砂糖の量はなかなかしっかりと入っている。同じやぶでも、並木のそれとくらべるとかなり優しい風合いに仕上がっている。
たとえば神保町で古書を漁って、両手に収穫を抱えつつ連雀町のやぶまでたどり着き、手にしたお宝を繙きながら蕎麦前を楽しみ、前庭をぼんやりと眺めてすごした後に、せいろうを一枚手繰って席を立つ。たまの休日に、そんな昼下がりを過ごすのも悪くないなと、思った。
【かんだ やぶそば】
東京都千代田区神田淡路町2-10
営業時間(11:30~20:00)
定休日:無休