学生の時分に大学でゼミナールを受講していた。学内でも有名な左党の先生で、赤い顔をして教鞭をとられることもあった。軽妙洒脱な語り口が魅力の先生であった。
卒業論文の提出も終わり、ゼミナールが一段落したころ、先生は受講生に「今晩は飲みに行こうか」と誘ってくれた。呑む店には事欠かない町だったので、一体どんな店に連れて行ってくれるのだろうと思っていたら、なんと暖簾をくぐったのは地味な蕎麦屋なのであった。手打ちでもなんでもない。そこらへんの、ありきたりの蕎麦屋。先生は常連らしく人肌の酒を数本頼んだ。学生と先生の前には、小さな猪口が並べられて、つまみは蕎麦味噌と揚げ蕎麦がちょっとだけ(笑)。
先生は延々と講義の延長のお話をなさって、いつもの赤ら顔に変化していき、とてもご機嫌そうだった。
我々はとても地味な気分だったが、最後に注文したもりそばは、妙に旨かったことだけ覚えている。おもえば、これが私の蕎麦屋酒の洗礼だった。
さて、夜に、一人で、ふらっと入って、安心して気分良く飲めて、旨いものも食える。そんなお店を何軒ご存じだろうか?私もよく、黄昏の時刻にたった一人で時間をもてあますことがある。誰かを誘うには遅すぎるし、パーッと騒ぎたい気分でもなく、来し方行く末についてちょいと内省してみようかな、ということになったら、決して居酒屋には足を向けないだろう。最寄りの蕎麦屋に飛び込んで、ゼミナールの先生の薫陶よろしく、酒と簡単な酒肴を頼んで、至福の思索時間に没頭するのである。蕎麦屋の酒肴は簡単なほど趣がある。その店の主張がストレートに出る。そして、店の雰囲気がこの幸せな飲酒空間を演出しているとなおよい。華美でなくてよい、喧噪はむしろごめんだ、蕎麦屋ならでは凛とした空気感のなかで、わずか小半時の酩酊を楽しみたいと思う。蕎麦屋で呑むことに慣れないうちは、ちょっと戸惑うこともあるかもしれないが、そこはそれ庶民の味方の蕎麦屋のことである。ちょっとしたコツさえ呑み込んでおけば、気持ちのいい時間が約束されることうけあいである。これから、折りにふれて蕎麦屋での酒の楽しみ方について記事にしていきたい。さて、蕎麦屋で酒を呑む。実はこれ、昔っからの伝統的な楽しみなのである。下の図版を見て欲しい。これは守貞謾稿という江戸時代の風俗百科事典に掲載されている蕎麦屋の品書きである。二八そばは言わずと知れた16文なのであるが、天ぷらはその倍の32文。そして、上酒はなんと天ぷらそばより高い40文!なのである。この比率で今風の値段に置き換えてみると、もりそば600円、天ぷらせいろ1,200円(ここまでは納得)、上酒一合1,500円!ということになる。ちなみにメニューは、右から●御前大蒸籠●そば●あんかけうどん●あられ●天ぷら●花まき●しっぽく●玉子とじ●上酒一合 と書いてある。長くなってきたので(いくらでも書けそう)、この記事はこの位にしておく。ところで、酒のことを「蕎麦前」と呼ぶことをご存じだろうか?これは、江戸時代から連綿と続く古典的なフレーズだから、日本酒を蕎麦の前に呑むということは昔っから暗黙のルールだったのである。
ぜひ、蕎麦屋に入って飲酒可能な条件が整っていたら、お酒を一本頼んでみて欲しい。そこから、新しい世界が広がっていく。
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