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全仏オープンから見る現代テニスの流れ

テニス界でもっとも激しいといわれるイベント=全仏オープンテニスをよく見ると、現代テニスへの流れが垣間見えます。マイケル・チャンとロジャー・フェデラーにも共通点が……。

執筆者:吉川 敦文

今年2008年も5月25日(日)~6月8日(日)までの2週間、テニス界でもっとも過酷で盛り上がる大会といわれる全仏オープンテニスが始まります。全仏は、レッドクレーという日本ではあまり見ることのできないサーフェスで行われます。今回は、その全仏を通して現代テニスの流れを見ていきます。

1989年、マイケル・チャンの優勝現代テニスの源流が表出

ローランギャロス
過酷で盛り上がると評される全仏の歴史を振り返ると現代テニスの流れが見えてくる
1989年のマイケル・チャンの優勝は、忘れられない出来事の一つ。マイケル・チャンはトップスピンを使い、サーブも含めボールスピードは速くありませんでした(もちろん、一般のレベルで考えるととても速い)。「あんな遅いボールで勝てるものなのか?」と懐疑的になったこともありましたが、レッドクレーで走り回り、アングルショットや深いボールとドロップショット、当時あまり多く見られなかったムーンボールと言われる高く跳ねるボール、バックハンドのライジングショットを駆使。

今でこそ当たり前の技術や戦術で、現在ではよりパワフルに、アグレッシブに利用されています。ただ、当時はどのように対処するべきか分からない選手が多く、単に「トリッキーである」とか「守備的である」と分類されてしまうはめに。

マイケル・チャンは優勝候補だったイワン・レンドルに準決勝で勝利していますが、そのときはアンダーサーブまでが飛び出しています。痙攣が起こり始めていたというのがアンダーサーブの理由でしたが、イワン・レンドルのリズムを崩す理由の一つになっていたのは間違いないと思います。

マイケル・チャンは1996年に世界ランキング2位に。その頃、体も太くなりアグレッシブにプレーする回数が大きく増え、サーブも強化されていました。ただ、スピンを利用したムーンボールの数は減っています。その理由は、マイケル・チャンのトップスピンに対して対戦相手が対応しはじめたこと、レッドクレー育ちでよりスピン量の多い選手にとっては、打ちやすいボールになってしまっていたからだと考えられます。

マイケル・チャンは、サーブ&ボレーこそしませんでしたが、ヘビースピンやラインジング、ドロップショット等多彩な技術を駆使。そしてフィジカルを鍛え、コートを激しく駆け回るという現代テニスの源流だったと言えるかもしれません。

1990年、モニカ・セレスの衝撃インサイド・ベースラインの始まり

モニカ・セレスとローランギャロス
モニカ・セレスは今年2008年WOWOWのテニスアンバサダーに就任
16歳で全仏優勝したモニカ・セレスの出現は、あまりに衝撃的な出来事でした。ボールを打つ際、大きな声を出し、コートの中で攻撃的なテニスをする、そんなテニスの優雅なイメージからは程遠いプレーは、「こんなテニスがあっていいのか?」と当時の解説者を困らせていたのを覚えています。あまりの強さが、ヒール的役割を負わされることにも。

モニカ・セレスは、インサイド・ベースライン(コートの中にポジションを確保し、相手をコート外に追い出し攻撃的なテニスをやりきる)の先駆者。よりスピードとパワーが要求される現代テニスの主流を作ったといっても過言ではないでしょう。

その後リンゼイ・ダベンポート、ジェニファー・カプリアティを経て、セリーナ・ウィリアムズ、ビーナス・ウィリアムズ、マリア・シャラポワ等のスピードとパワー、インサイド・ベースラインのテニスが主流になるまで約10年かかります。

ちなみにガイドが彼女に「いつからそういう(インサイド・ベースライン)テニスをしようと思ったの?」と聞いた時、「7歳でテニスを始め、父親と駐車場で練習していた頃から、そのテニスをしていたよ」とのことでした。

>>次は、「スパニッシュテニス」と「トータルバランステニス」への流れ>>
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