“フォー・タイムス・チャンピオン”連呼の孤独
2002年の四度目の戴冠は、サップに連敗した後の敗者復活から訪れた。敗れてもなお勝負への執着心を捨てない“ホースト・イズム”が横溢した、奇跡の乱高下劇だった。 |
もちろん自己顕示欲もあるだろう。しかし一人のファイターとして、自らが選んだK-1という戦いの場を権威づけ、そして価値ある物として引っ張って行きたいという王者の義務感もあったと思う。ただ悲しいかな、彼が顔色を変えて“フォー・タイムス・チャンピオン”というセリフを喚き散らす度に、その想いは空回りする。実際その姿は滑稽極まりなく、煽りビデオで、まるでそんな彼を嘲笑するような作りの物まであったように思う。なぜ彼の必死の訴えが、滑稽に映るのか? 厳しい事を言うなら、K-1GPにはまだオリンピックやワールドカップのような、真の権威がないからである。
十年と言う年月は、一人の競技選手にとってはほぼ現役生活の全てにあたるほど長いが、新しく生まれたスポーツに権威を与えるほどの時間ではない。1993年に生まれたK-1の歴史はまだスポーツとしてはあまりに浅い。サッカーや野球のように悠に100年を越える歴史を持ったメジャースポーツと比べれば、社会への浸透も、認知もまだまだだ。
スポーツの権威とは、あくまで積み上げて来た競技の歴史が作り出し、それを認識する多くのファンが支えるものでなければならないものである。ましてきっちりしたアマチュア組織も持たない、一介のプロイベントが競技の頂点たるチャンピオンを認定しても、そのピラミッドが百人前後の競技者しかもたない以上、トップに立つ王者も「百人の王」でしかない。そんな王者が権威を誇ることは、本来滑稽な事でしかないのである。
だからこそ、ホーストの“フォー・タイムス・チャンピオン”連呼は悲しく、また切実なのである。これが仮に、百年後、K-1が数百人というチャンピオンを生み出した後、そして世界規模のメジャースポーツになった後、のチャンピオンであったのなら、彼が自前で連呼しなくても、自ずと相応の敬意が向けられ、当人がその意義を強調する必要は一切なかったことだろう。
これは、ある関係者から聞いた話だが、2005年シーズンを体調不良で棒に振ったホーストが、周辺に対しては体調自体よりも「闘争心がなかなか湧かない。年取ると闘争心が湧かないのが最もしんどい課題だ」と愚痴をこぼしていたというのである。要するに、つまりトーナメントで勝ちあがる「自信が無い」のではなく、「意欲が湧かない」というのである。
これは何も格闘技に限った話ではないが、事業やスポーツで成功して、ある価値観の頂点に立ってしまった人間には独特の倦怠感が生まれてくることがある。俗にいう「燃え尽き(バーンアウト)症候群」と言う奴である。
自らが信じた世界に一心不乱に打ち込んだ結果、得るべき名誉や成果をすべて達成してしまった人間が、目標を見失ってしまい、本来発揮できるはずの力を発揮できず無気力に沈んでしまうわけだ。
彼が変則的な「トーナメント引退」を言い出したのは、加齢による肉体の衰えより、一日三試合という過剰に集中力を要求されるGP戦に、耐え得る精神力を保てなくなったから、と見るべきなのかもしれない。