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K-1,PRIDEの引き抜きは許さない!「ボクシング界からの絶縁状」(下)

ついにボクシング界がPRIDE、K-1からの選手引き抜きに対して、強硬な対抗措置を打ち出した。この流れはボクシングと新興格闘イベントとの「絶縁状」になってしまうのか。

執筆者:井田 英登

【前編】西日本ボクシング協会辻本会長に直撃インタビュー

1997年幻の「K-1ジャパンリーグ」と“吉野事件”

ボクシング選手獲得にさほど熱心でもないPRIDEはひとまず横に置くとして、今回の問題の中心軸には「K-1とボクシング界」の関わり方を置くべきであろう。

では、そもそもK-1がボクシング選手獲得に走り出したのは、いつの話だろう?

パッと頭に浮かぶのは、1997年に元東洋太平洋ウェルター級/日本ウェルター級王者・吉野弘幸がK-1に参戦した“事件”あたりを嚆矢とすべきだろうか。

“黄金の左”を武器に、30勝中23KO、14戦連続防衛(内8試合連続KO)という恐るべき戦績を残しているこのスター選手のK-1転向は、当時格闘技雑誌の表紙にも取り上げられるほど衝撃的な“事件”であった。吉鷹弘や伊藤隆といった当時バリバリのトップファイターが、目の色を変えて吉野とグローブを交えたいと語っていたほどで、もしこの頃K-1がMAX的な中量級戦線を本格的に構築していたら、キック界の勢力図は一夜で変貌していたかもしれない。

事実、この前後、K-1は国内のキック界の分裂状態を、自らの旗の元に統一する事に熱心な動きを見せていた。この年の6月には、正道会館、MAキックボクシング連盟、シュートボクシング協会、全日本キックボクシング連盟、日本キックボクシング協会の統一体となる「K-1ジャパンリーグ」を結成している。また他ならぬボクシング界から、あの協栄ジムが「K-1キョウエイジム」名義でK-1に選手を送り出すとの発表をしたのもこの頃の話だが、実際にここから巣立ったK-1選手は寡聞にして聞かない。

この年の暮れ、K-1GP決勝大会に組み込まれたフェザー級トーナメントには、全日本キックの前田憲作、シュートボクシングの村濱武洋、MAキックの佐藤堅一、そして欠場してしまったもののここに日本キック(現新日本キック)の小野寺力という、それだけで後楽園ホールなら満杯という顔ぶれが並ぶ。まさに夢のキックオールスター戦であり、MAXの前駆的トーナメントが実施されたのも、こうした合従連衡の動きがあってこその事であった。

吉野の参戦は、この「ジャパンリーグ」結成の動きと無縁ではない。なんと吉野はK-1参戦にあたっての身柄引き受け先として、この7月に全日本キックに入団しているのである。

デビュー戦は、9月大阪ドームで開催された「K-1 GRAND PRIX'97 開幕戦」のスペシャルワンマッチ。キック本職のメルビン・マーリーと対戦であった。ボクシング的なワンツーのコンビネーションを考えて、一発目の右のジャブに反応して左にダッキングした吉野に対し、いきなりハイがクリーンヒット。“異種格闘技”の洗礼を浴びてしまった吉野だったが、その後は豪快なパンチで畳み込み、KO勝利を飾る。しかし、この衝撃的なデビュー戦以降、吉野がK-1マットを踏むことは二度となかった。

この件に関して表立った説明は行われていないが、この年の11月に吉野の所属となった全日本キック連盟の母体である、興行会社オールジャパンエンタープライズが倒産。また、当時ヘビー級中心に展開していたK-1には、ウェルターの吉野が存分に活躍する背景も無かったというダブルパンチ状況が、吉野フェイドアウトの理由といっていいだろう。

この後吉野は、再びボクシング界復帰をめざすが、なんと14度の防衛記録を誇った元チャンピオンのライセンス申請は素直に受理されなかったのである。JBCには「他のプロスポーツに関与もしくは従事する者は、JBCの審査を経たうえで、発給の可否を決定する」という規定があり、吉野の身分は1999年の野口ジム移籍まで1年以上も宙ぶらりんになってしまったのである。前編でも触れた通り、こうした規定が設けられた背景には、70年代沢村景気に湧いたキックボクシングブームが大きく影を落としているのかもしれない。

前編に収録した辻本西日本ボクシング協会会長のインタビューでも触れられていたが、当時、新興格闘系スポーツとして、老舗のボクシングを凌ぐTV視聴率を稼いだのがキックであった。この新勢力に、西条正三(元世界フェザー級王者)や金沢和良(元東洋バンタム級チャンピオン)といった往年の名チャンピオンが流出。キックはいわゆる“引き抜き”と異種格闘技戦的な“ぶっ潰し”で、ボクシングに対する優位性を示そうとしたのであった。

まさにK-1やPRIDEが台頭した1990年代以降の引き抜き攻勢と台頭の構図は、この時代の再演とも言える。当時キックボクシングの侵攻を防ぐために設けられた「ライセンス規定」の防波堤は、吉野と言う一種先祖帰り的な存在によって二十年の歳月を経て再び浮上し、K-1とボクシング界を分つ機能を果たしたのである。

吉野自身はこの後K-1のリングを踏む事は二度となかったが、魔裟斗や武田幸三、緒方健一らMAX世代のキックボクサー達との交流があり、しばしばボクシングアドバイザーとしてキックシーンンでも名前が挙がる存在であり続けている。また、逆にボクシングのリングで、K-1ファイターとなったガオグライ・ゲーンノラシンと闘うという、希有な体験をしてもいる。

2004年4月6日。舞台となったのは、ボクシング界復帰以来吉野の“独演会”的な意味合いで続いて来た「Mega Fight」シリーズの19回目の興行だった。メインイベントで、吉野は、この「マトリックス戦法」を駆使する変幻自在のムエタイ戦士と、国際式(要するにボクシング)で10ラウンドを闘うことになったのである(判定負け)。

ガオグライがK-1デビューを果たすのはこの三ヶ月後の事なので、この段階での彼をK-1ファイターと呼ぶのは若干おかしいのかもしれないが、それでも吉野とK-1の幻のような一瞬の交錯を知る者にとって、“世が世ならば”K-1のリングで遭遇していてもおかしくないこのカードが、ボクシングルールの試合で実現したことは、歴史の皮肉と感じられるのではないだろうか。
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