魔裟斗が言う「世界一」の立場にしても、その評価をそこまでに高めたのは、ある意味彼の上昇志向の強さと彼の放つ磁場の強さであることを忘れてはいけない。実際、昨年K-1 Maxの覇者となって「世界一」の地位に付いたのは、アルバート・クラウスであって魔裟斗ではないのだ。では、クラウスは2002年シーズンにどれだけの現実的な栄華を手にしたか?優勝賞金こそ手にしただろうが、映画出演や一般マスコミの取材といったオファーに結びついては居ない。いわばその“成功”は「スポーツ枠」あるいはさらに小さな地盤でしかない「格闘技枠」を一歩も踏み出すことができなかった。さらに言うなら、格闘技の枠の中でだけでも、おそらくクラウスは専門誌の表紙を飾ることもほとんどなかったのである。雑誌が取り上げたのは全て敗れた魔裟斗だったのである。この差がおそらく両者のスタンスの違いであり、真剣勝負の世界における「格」の違いを産みだす要素になるのではないだろうか。
かつてボクシングの世界にも、実力と人気の点で対立軸をつくったいくつかのライバル関係というものがあったはずだ。モハメド・アリとジョー・フレイジャー、あるいはマイク・タイソンとイベンダー・ホリフィールド、辰吉丈一郎と薬師寺保英、挙げていけば枚挙にいとまが無いないほど、こうした図式はあちこちに観られる。だが、結局のところ競技内のトップに立つことだけをイメージした選手は、競技内部を飛び越えて往くことは少ない。選手として、そして「ルール(競技)の内部で一時期頂点に立つ」ということを人生の頂点に重ね合わせる人間と、それをも踏み越えてより広い世間の関心を掻き立てることを最大の目標にする人間の違い、とでもいうべきか。一つの試合の勝ち負けより、最終的に「人生のチャンピオン」たるべく欲望し、そしてその階梯をあがること、成功を手にするための手段としてリングに上がる男達。そのバイタリティの前に、どうしてもストイックな「競技チャンピオン」の影は薄い。無論、その資格を得るためには、「競技チャンピオン」を上回る努力と才能が要求されるのは当然である。しかし、僕の目からみると、それ自体競技内の頂点を最終目標にするよりも、より高いハードルを飛ぼうとするトライアルに見えてしまうのである。だからこそ、普段は格闘技になど見向きもしないファンの心さえもざわつかせるエネルギーを放つ人間と成りうるのだとも。
だが、こういうエネルギーと欲望の塊と同時代に生きることを運命づけられた選手たちは決して不幸ではない。
ここまで述べてきた通り、アルバート・クラウス、小比類巻貴之、武田幸三…魔裟斗のライバルに称せられた彼らは、みな傑出したアスリートであり、いわば「競技志向」系の選手である。そして、これまで述べた通り、魔裟斗の巨大な野心によって、一度は完膚無きまでに踏みつぶされた経験を持つ。
「勝って当たり前のことをしただけ。おれのライバルはもういない」とまでうそぶく魔裟斗には、今、当然王者としての発言権がある。
しかし、思い起こしてもみてほしい。魔裟斗もかつてはそのクラウスや小比類巻に敗れているということを。当然、そこから這い上がり、リベンジを成し遂げたということ自体、すでに恐るべき業績である。しかし、原則論に徹して言うなら、魔裟斗と彼らの直接対決の戦績はあくまで「一勝一敗」のイーブンでしかないのである。そこで「世界一」を公言し、ハリウッドスターという異次元へと勝ち逃げを目論むにはまだ早いのではないかと、僕は思う。
“後追い”で同じラインに立った選手が、最新の戦績を盾に「勝負は付いた」というのは、神経戦で言えば常套手段にすぎない。仮にここで魔裟斗が引退を宣言してしまうなら、その言い分も八割方通じてしまうかもしれない。しかし、魔裟斗自身、その言い分が実はフェアではないことは十分身にしみているはずなのだ。あれだけ誇り高く、そしてタイマン勝負にこだわる男が、そのことを意識していないわけがない。反逆者とは、実は世論にもっとも敏感であり、もっとも物事の公平に気を使う人間でもあるのだ。だからこそ、あれだけ敗者を悪し様にいい、そして這い上がってくることを“要求”するのである。ーーかつて自分が嘗めた辛酸を同じように味わい、そして這い上がってこい、と。
魔裟斗が「あと一回」と言う以上、本当の「最後の決着」を意識してのことと考えて間違えあるまい。
“競技的ストイシズム”と“スーパースター願望”の相克という、格闘技始まって以来の永遠の命題に、ひとまずの決着がつくのは、来年春に予定される第3回の「K-1 WORLD MAX2004 ~世界一決定戦~」の結果を待たねばなるまい。
そして、魔裟斗が「格闘技界を越える」資格を持つかどうかも、そこで答えが出るはずだ。
※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。