Cosa Nostra結成まで
――桜井さんのお名前は、小西康陽さん、窪田晴男さんとの企画アルバム『the recorded art of "GIRL, GIRL, GIRL"』(1991年)で存じ上げていましたが・・・FM横浜での実験的な番組(関西なので聴いた事は無いのです)のCD化だと理解しますが、毎週皆さんで新作を発表し続けたのですね。3人とは言え、きついノルマですよね。2年以上続き、CDも8枚出ていますが、こんなに続くと思われていたのでしょうか?桜井:最初は誰も「続くわけないよ」と批判っぽく語っていましたが、(実際、僕らも相当キツかったのですが・・・何せ週1でアルバム1枚作っているようなものでしたので)そのうち、その辛さを楽しめるようになり、何とか2年数ヶ月やり遂げました(代打アーティストに感謝)。
――それ以前は・・・桜井さんは、サザン・オール・スターズの野沢“毛ガニ”秀行さんが中心だったと記憶するJapanese Electric Foundation(JEF)の『Japanese Electric Foundation』(1986年)に参加されていたんですよね。当時、British Electric Foundationとの関係を考えながら聴いていました。
桜井:当然、B.E.F.は意識しました。というよりか、パクリです。嬉しかったのは、ライナーノーツで、桑田君が桜井鉄太郎をバカ誉めしてくれたこと。これ以降、注文が殺到しました。
――現在、Cosa Nostraは桜井さん、長田さん、小田さんの3人で活動されていますが、91年の結成当初は西麻布のスタジオRUNTをベースとした流動的なメンバーの集団だったのですよね。それも、単なる楽器担当というメンバーではなく・・・DJや選曲家なども備えた集団として。
桜井:きっかけはGIRL×3の番組に助っ人として、当時仲良しだったDJ達が、参加してくれたことが大きかった。結果、番組内に多くの名曲が誕生し、それがCosaの1stアルバムに繋がっていきましたね。
長田:始まりは、「DJが音を作るとどうなる」みたいな所からスタートして、4作目『MIND SONG』からは、色々な個性の融合で新たな音を作り出すといった、いわゆる日常的なコラボの形態でした。その精神は今も変わらず、それがCosa Nostraのベーシックな部分になっているし、その時代は各自の個性から生まれたメジャー感、コア感による楽曲がクラブミュージックをより自由な形へ導いていったことも確かだと思う。