テクノ女番長!
――今回インタヴューが出来て大変嬉しいです。日本のメディアのために今まで多くのインタヴューは受けましたか?はい! 特に過去2ヶ月に、たくさんしました。私のすばらしい日本のマネージャーであるミホが、全部オーガナイズしてくれました。多くのインタヴューは、ウェブサイトのためにされましたが、記事は徐々に増えていくでしょう。日本は、私にもレーベルにとっても大変重要です。私たちは、多くの日本のファンに支えられています。
――あなたの苗字はどう発音するのですか?日本人が外国人の名前を表記する時は、発音に基づきカタカナで書きます。日本では、あなたの名前は2種類の表記がされています。ひとつはエイリアン・・・ちょうど英語の「Alien」のように、もう一つはアリエン。どちらがドイツ語に近いですか?
どちらも不完全です。エイリアン(Alien)とEllenの中間です。重複した「L」がポイントです。
――日本で何故か人々は、あなたを「テクノ女番長」と呼んでいます。「番長」は、一種のクールな意味で「スクールギャングのリーダー」と訳しておきましょう。あなたはそれについて知っていましたか?
ナイスな感じがします。気に入りました。何故か、私は、こちらでもギャングのリーダーです(笑)。いえいえ、真面目に行きましょう・・・私は、ベルリンとおそらくは国際的なテクノ・インダストリーで確かなポジションを築いています。一旦私が私のやりたい方法で何かをすることに決めたら、強く確固たる意志を持たないとダメです。おそらく、それが番長である所以でしょう。
DJへの道
――90年代初期にDJを始めましたが、どのように始めたのでしょうか?1989年頃、WestBamがレギュラーDJだったFischlaborと名付けられた小さいバーで私は働いていました。バーの中に居た頃、多くの新しいエネルギーを感じました。自分の仕事のためにテープを録音し始めました。レコードをミックスしたり、音楽を捜し求める事が喜びでした。まもなくミックスを練習するためにターンテーブルを買って、友人のために最初のミックスを作りました。そして、なんとか最初のDJとしてブッキングに成功したのです。15年後の現在、あの時のミックステープはまだ大事に持っています。
――最初からDJ&音楽家になろうと思ったのですか? あるいは、何か別の職業につきたかったのですか?
最初からではありません。しかし、これが私の天職となる機会であることはすぐに理解できました。私はとても幸福になれました。以前、私はサックスを演奏したりして、少し音楽を演っていました。また、芸術とよりアンダーグラウンドなもの(80年代西ベルリンにとって典型的でした)といつも接触していました。18歳だった時に、実はファッションデザイナーになりたかったのです・・・今、私は、EAEと呼ばれる自分として最初のファッションコレクションを発表しています。私は、幸福な人になるために自分の運を見つけようとしていたのですね。