このところ、長年、僕がリスペクトしてやまないアーティストの方にインタヴューする機会に恵まれています。勝手に日本のトニー・マンスフィールドと僕が呼んでいる屈指のメロディー・メーカー、戸田誠司さんです。5月15日、目黒駅近くの喫茶店にて・・・

Shi-Shonenとしてデビュー

――先ずは、古い話から入りますが、よろしいでしょうか? Shi-Shonenがプロ・ミュージシャンとしてのデビューですが、「極東通信」というアマチュアバンドが母体だと聞いたことがありますが、メンバーは?

それは、僕が大学時代にやっていた、今で言う宅録のプロジェクト名ですね。だから、メンバーは僕一人。シンセサイザーで作った曲をコンテストに送っていたと思います。

――Shi-Shonenとしてのコロンビア内のShan‐Shanからのデビュー・シングルは『嗚呼上々』(1983年)ですが、この時期は、曲タイトル、サウンドともに、前のバンド名のイメージをもつ、どこかノスタルジックでアジア大陸的なエキゾ・ポップですね。やはり、アジア的なものにこだわっていたのでしょうか?

そうですね。僕は、YMOというよりも、当時、教授の『千のナイフ』とかのサウンドが、とても好きでしたから、その辺からの影響はあったでしょうね。

Non-StandardのShi-Shonen

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――その後、12インチ『Shi-Shonen』(1983年)、よりネオアコなシングル『憧れのヒコーキ時代』をリリースした後、1985年に細野さんのノン・スタンダードから、デビュー・アルバム『Singing Circuit』(1985年)で再スタートを切るわけですが、ノン・スタンダード内のアーティストは繋がっていたんでしょうか?

ノン・スタンダードもENにしても、回りから見ているほど、アーティスト同士の繋がりは無いですしね(笑)。

――リスナーからすると、一つの共同体のようにとらえていますけどね。

友達は、あんまりいなかったですね(笑)。仲間意識はあるけど、ライヴァル意識もあると。

――60年代~70年代的ポップの構造を持ちながらも、テクノポップという、現在の音楽シーンで若い人たちがやっている事とも通じる内容ですが、何か具体的にShi-Shonenとして目指していたものはあったのでしょうか?

24歳ごろから35歳まで、ずっとスタジオにこもって曲を作っているんですよね。コンセプトを考える時間は、アルバムを作っている時間の100分の1ぐらいなんです。100分の99は、その時にやりたかった事をやっていたという事ですね。