統合以前の情報を、感覚器は受け取っている
我々の「感覚」というものに目を向けてみよう。網膜に映像が映り、音波によって鼓膜が震える。ここまでは確実に物理現象である。次に、その映像や鼓膜の振動によって神経に電気信号が伝わる。これは基本的には物理現象だが、多少の意識、観念的なプロセスが認められるだろう。
そして最後に、それらの電気信号が脳によって統合される。この段階にいたると、物理的プロセスは残されるものの、意識にのぼる情報は完全に抽象化、観念化されたものになる。
つまり、我々が耳で「聴き」、目で「見ている」と思っているところのものは、上に述べた最後のプロセスで統合され、抽象化された「情報」でしかない。しかし一方で、われわれの身体は、最終的に「情報」として統合される以前の感覚刺激をキャッチしている。その情報は質、量ともに、おそらく最終的に統合された観念的な情報とは比べ物にならないくらい豊かなものだろう。
そして、ここで確認しておくべきことは、セルフ1が判断し、命令するために与えられている材料は、抽象化された「情報」であり、セルフ2が動作を行なうための材料は、「感覚」に近い、抽象化以前の「情報」である、ということだ。
セルフ1の「命令過多」は、自然学習を阻害する
「無意識にやってしまった」というとき、われわれの身体(セルフ2)は、何をよりどころにして行動、運動したのだろうか? 私は、無意識の行為の際には、上で述べたような抽象化以前のレベルでの情報処理が行なわれているのではないか、と考えている。このことを音楽にあてはめてみよう。たしかに、音楽における情報といってすぐに思い当たるのは、旋律や和声といった、洗練された「情報」である。しかし、たとえばリズム1つとっても、洗練された、言語化できる「情報」以前の、感覚的な情報としての側面が大きいと思われる。
音楽には確かに、洗練された「情報」として学ばねばならないことが多く存在する。しかし一方では、抽象化される以前の、混沌としたモノ、感覚でしか捉えられない要素がその何倍も含まれており、それに身体が反応しない限り、よい演奏にはつながらないのではないだろうか。また、洗練され、精緻に言語化されるまで情報化された和声や旋律にしたところで、元をたどれば、それは混沌とした、感覚的なモノに行き着くはずだ。使い古された言いまわしだが「理論は常に後付け」なのである。
だとすれば、ここにインナーゲームが主張する「セルフ1を黙らせ、セルフ2の好きにさせる」方法論の有効性が予感される。
セルフ1のよりどころは、「余計なものをそぎ落とした、洗練された情報」である。言い換えれば、「目的のために必要なもの」だけを選択し、それを元に判断し、命令を下す、ということがセルフ1の役割なのだ。しかし、楽器演奏の学習過程を考えた場合、このセルフ1の作用は大きな問題となりかねない。というのは、情報の取捨選択を行っている時点でのセルフ1は、必然的に音楽的に未熟だからだ。
つまり、セルフ1の命令に従って演奏を行なう、ということは例えるなら「素人の指揮のもとに演奏を行なう」ようなものなのである。このジレンマは、原理的に解くことができない。たとえば世界的なミュージシャンの指導書を受け売りする素人の指導を、あなたはまともに聞こうと思うだろうか? しかし、自分の身体に「ああしろこうしろ」と命令するという行為は、こうしたアポリアに落ち込んでいる、と考えてほぼ間違いないのである。
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